2013/02/23

法と開発 組織化・同調圧力(追記20140810)

平日:
運動せず


プラクティス
・日本人(と中国人)は,法を無視する傾向にある(仮定)
これは次の歴史的な理由によるものと考えている.
1日本も中国も,長年律令法を法の基礎としてきた.
2律令法は民法的私法概念を持たず統治法としての性格が強い.
3個人にとって律令法は,自分を保護してくれるものではなくどちらかと言えば害を与えてくるとみなせるものであった.
個人を保護せず害を与えるものであれば無視または否定するのも当然だろう.
・法が個人を保護しないため,日本と中国では個人を保護する制度を自分たちで,もしくは被強制的(日本では移動可能性の制限や五人組など,中国では原則自力救済の論理)により,作り上げてきた.セーフティーネット.
その制度は,中国では自立概念を前提に持つ礼,日本では絆(語源的意味含む)と道徳と恥を共通言語とした自立概念を持たない同質化・組織化か.

・一方欧米では,個人を保護するために(たとえばフランス革命や南北戦争のような市民革命を行い)それまでの法自体を,それまでの道徳・慣習に加え個人権利を含む「法」に変えた(ローマ法というベースもあったが).欧米では「法」は与えられたものというより自分たちで勝ち取ったものだった.もっといえば,欧米において「法」は,「自分たちの」正義の執行そのものだった.
・自分たちで作り上げたもの,勝ち取ったものを大切に思うのは当然といえるだろう.日本では組織化が大切にされ,欧米では「法」が大切にされてきた.
・日本では,法と「法」は同じものでなかった.
・日本では,不平等条約改正のために,国際的要求として,明治にドイツから民法が導入された(実際は急ぎフランスから導入した後にドイツから再導入,結局フランスベースとされているようだ).民法は外部から導入されたものであり,個人感覚とは多くのずれがあったようだ.そのためか,日本では,民法を導入した後も,上記法に対する個人の感覚が引き継がれたようである.

(・欧米の文化においては,アイデンティティは人間の体の範囲内に存在する.法によりアイデンティティを保護する人権を確立させてきた.日本の文化においては,アイデンティティは人と人の間に存在する.組織化によりアイデンティティを保護してきた.
・権利とは,アイデンティティ間の衝突を避けるために作られた,法により有効付けられる手段である.アイデンティティが人と人の間に存在した場合,そも権利はその有効性を失う.)

・日本の個人は現在では次の特性を持つと感じている.
優先順位が,組織化>権利>法.組織化により自己と他人を守る.組織化の都合上法的権利以上に多くのものを他者に求める.民法的権利を個人の武器として使用する.法が法であるだけでは守るに値すると考えない.組織化上の必要性や罰則がなければ法を守らない.責任という概念に薄い.法に頼る感覚が薄いため立法への関心が薄い.組織化の必要上個人という感覚が薄い.個人という感覚が薄いため権利感覚が薄い.個人という感覚が薄いため自立した個人と個人との対等な契約としての法感覚がなく,契約を重視しない.個人という感覚が薄いため同情心が強い.倫理観よりも慣習で判断する(異質の発生としてのドーピングや不正は許さないがそれが一般化すれば許す).不正を嫌う(スタート時の不公平と,ゴール時の不公平の,双方を嫌うという社会主義性).異質排除として極端ないじめがおき,それが実質的に許容される。
・日本は,明治に採用した大陸法と戦後導入された英米法双方に未だに馴染んでいないと考える.見方を変えると,日本人の文化に現在の法が対応していないともいえる.

・欧米は主に民「法」的概念を形成させ,日本は組織化の概念を形成させた.
欧米では,個人が「法」に適合するよう感情論を廃し自由と責任のもとに自立させ,社会性を形成させている(個人が常に自己の存在価値を示さなければならない厳しい社会).日本では,個人が組織化に適合するよう個人の垣根を曖昧にし責任を不明確にさせ,社会性を形成させている(個人はその社会適合が重視され,個人の存在価値を示す必要は薄い).
(中国は礼の影響で自立概念がもともとある.この点は日本と異なる.
「中国人は一人なら龍だが三人集まると豚になる。日本人は一人なら豚だが三人集まれば龍になる。」といわれ,それは正しいように思える.群知能?.ベクトル統一の必要性と標準化の必要性の違い.)
日本は民「法」的概念を海外から取り入れたがそれまでの組織化の概念は捨てなかったため,私法として民「法」と組織化の2つを同時並行で適用させる.社会規範の内,「法」の個人的な面が組織化と強く乖離しつつ,融合している.これが日本人の考え方の特殊性を生んでいるように思う(比較対象はみなし)
・理由を他人に置く文化,理由を自分に置く文化.


 個人の自立が必要な「法」を適用させつつ,個人の曖昧化が必要な「組織化」を適用する.同一個人にこの両立は可能だろうか?.

 自己と他人の境界が曖昧な個人が,組織化と同じ感覚で,「法」の自己決定権の範疇の事項を「法」の他人に請求する権利と履き違える問題(責任を理解していない問題),常識がないという非難方法,個人の感情を理解できないという非難方法,そしてモンスターペアレンツなどの「個人の感情に対して公的なシステムが責任をとれ」という問題は,個人が権利主張において,組織化と「法」を両立させようとした結果,もしくは組織化と「法」を混同した結果発生したと考えている.
(メモ:「法」は,「人権」「権利」を含むが,明確に区別して述べていない.見直すこと)

課題設定
1 「法」と組織化,どちらを重視するか?
2 個人の自立が必要な「法」を適用させつつ,個人の曖昧化が必要な「組織化」を適用する.同一個人にこの両立は可能だろうか?.
3 組織化には利点と欠点がある。利点をみて組織化を賛美し,欠点を見て組織化を排除する。これを同一個人が同時にやってのける。この思考方法は,どのように形成されるのか?

妄想
前提:自明というなかれ.当たり前と思うことをなぜ当たり前なのかたまには考えなおすべき.

組織化は慣習とつながる.
 「法」と組織化どちらを重視するかについて,慣習法の上下関係で解決できるのか?.基本は法>慣習で民法は限定的に慣習>「法」.法は必要最低限なので法>慣習は当たり前,適用法がある事例であれば確実に慣習よりも法が適用される.適用法がない事例であれば慣習法の適用が可能だが,組織化のうちどこまで慣習と認められるのか.一般的な判例は見つからない.個別判定って言うしか無いか.また,民法的にはある条件では慣習>「法」となる.てことは,「ある条件」が追加されることで慣習>「法」となることもありえるわけだ,よほど共通認識のある慣習でなければそうならないだろうけどうむう.

組織化は道徳ともつながる.
 が,「法」と組織化どちらを重視するかについて,欧米で検討された「法」と道徳の比較論は多分参考にならないだろう.欧米の個人の自立を前提とした道徳の概念と日本の道徳の概念は,法的文化的乖離がかなりあるはず.また,組織化は内面的発意による道徳でなく,外面的半強制による道徳だろう.内面外面論に意味は無いが.法は歴史に影響を受けており演繹に理想的でないから.社会道徳と個人道徳の区別と解釈か・・・.「法は倫理の最小限」と認定できれば,法>道徳で落ち着くけど.

 全体的には,「法」>組織化で,必要ならば組織化が法に取り入れられる可能性はある,としていいかな?.
 組織化を法に取り入れるには,立法経由と司法経由があるが,個人が主張してから共感を得てゆくには司法経由,共感を得た上であれば立法経由かな?.
 「弁理士は権利関係がどうなっているかを重視し,弁護士は紛争解決を重視する」という.同じ法に携わるものでもこのような違いがある.弁理士は上記妄想の「法」のみに原則的に理論的に注意し,弁護士は上記妄想の「法」と「組織化」双方に現実的に結果論的に注意している?.


検討
・全体を俯瞰できることが重要。簡単なものからスタートし,最終的に原典比較を行う。
(検討中・・・)

他人の意見のうち名言から
和をもって尊しとなす(聖德太子) ああ,忘れてた.聖徳太子の影響力は民法導入時の近代にどれほどあったんだろう?.太子講?.
・人能く道を弘む.道,人を弘むるにあらず(孔子) 孔子から礼へ.儒教の影響で,劉邦や劉備はすぐに子供を馬車から投げ落とすようにいやなんでも.
君子は和して同ぜず(孔子) 日本は和だけ?だから同ぜずという自立概念がない?.
・一切の法はみなわが心より造りなすものなり…地獄も畜生もわが心の内の苦なり(慈雲) 法違いではあるが
・仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐればへつらいとなる。智に過ぐれば嘘をつく。信に過ぐれば損をする。 (伊達政宗)
・道徳なんてものは意気地なしで社会に生存できない奴が自分を保護するために作ったものだ(内田魯庵) 幕末~昭和初期.ドイツ法導入前後に生きた人の一意見.弱いものの盾としての道徳
・我々を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である.我々はほとんど損害のほかに,何の恩恵にも浴していない(芥川龍之介) 封建時代の道徳≒組織化でなく≒法?(明治前の法は成文法でない部分が多いため,支配する道徳といえば=法とも言える).道徳の意味合いが変わりすぎていて参考にならん.道徳の分類整理が必要か.
・強者は道徳を蹂躙するであろう.弱者はまた道徳に愛撫されるであろう.道徳の迫害を受けるものはつねに強弱の中間者である(芥川龍之介) 法優先道徳例外?.それとも道徳=法のこと?.強者>道徳=法?
・道徳は我々が個人的に好かない人に対する態度だ(ワイルド) 強いものの武器としての道徳
・道徳律は常に変化している(ラッセル) ふむ,これを認めると道徳は時期限定された司法にしか使えないな.
・旧道徳は危険を回避することを命じた,だが新道徳は,危険を冒さないものはなにものをも得ない(ロマン・ローラン) 1866~1944.フランス.1922~1933著作中の記述.道徳に断裂,諦めの道徳→調和の道徳.つまりフランスでは調和(=多分弱い組織化)のほうが後か?.
・道徳とは旧い搾取者の社会の破壊に役立ち,新しい共産主義社会を創造しようとするプロレタリアートを中心に,その周りにすべての勤労者を団結させることに役立つものである(レーニン) 集団による武器化のための道徳
・道徳的意志はひとたび法則化されると自由の桎梏となる(ヤスペルス) 時代とともに変遷するものを固定化させるなってことかな?.すると法に対する道徳の立場はもう少し強くすべきと思うが.うーん,日本の司法にもエクイティのような概念が必要かな.
・道徳的理想の勝利は他のいずれの勝利と同じく非道徳的手段によって,つまり暴力・虚言・誹謗・不正によってえられる( ニーチェ)
ガンジー?
・徳にとってまず要求されることは自己自身を支配することである(カント) 
・節操なくしては、世界には恋も友情も美徳もない(アディソン) 節制としての道徳,諦めの道徳?
・最高の道徳とは、不断に他人への奉仕、人類への愛のために働くことである。(ガンジー)
・「20年がかりで進めてきた政略結婚が失敗だと!」「それは勘違いです陛下。」「お二人は自立されたのです」(映画 ヴィクトリア女王)
道徳は,変遷するため法に組み込むべきではない社会規範,であると思っておこう.法と道徳の上限関係はこれらからは導けないな.

道徳と法令
・作業仮説:社会的な慣習,道徳の最低限を規定したものが法であるはずである.別の学説あるか?
・作業仮説:法は常に道徳・慣習に優先し,法で判断できない事例では司法が慣習・道徳を含め判定するシステムとなっているはずである.司法の実際は?
・作業仮説:法令>道徳? 国際差は?
・民90公序良俗「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」(公の秩序(社会の一般的秩序)および善良な風俗(社会の一般的道徳観念)のこと。法律行為が社会の一般的秩序または社会の一般的道徳観念に適合していなければならないことは、法の一般原則である。したがって、公序良俗に違反する法律行為は無効とされる)
・道徳 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3 
「道徳は、政治的に利用されることもある。為政者に都合の良い教えを道徳とし、社会的な規範とすることによって人民を容易に拘束できるので、封建社会などでは領民を精神面で押さえつけることに利用された。現代では、自分の属する社会への奉仕は愛国者と称賛され、集団に従わない場合は不道徳な非国民と非難されることもある。また、近代以前の社会(特に東洋)においては、法律と道徳・慣習的規範の未分化状態が長く続いていた。日本では、江戸時代に、荻生徂徠が道徳と法の明確な分離を主張し、以後、国学に継承されていった。権威に訴える論証、伝統に訴える論証も参照のこと。」(この道徳は組織化と同じ意.だが,江戸時代に道徳と法の分離の主張があった?.江戸の法の射程距離は?)(その他,内在性道徳,社会道徳,普遍性と多様性と変化,道徳と,)
・国学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6 (?重要でないか)
・(未調査)


感情と法令
・作業仮説:法令>感情? 国際差は?
・民723の名誉とは社会的名誉を指し名誉感情は含まない(最判昭45)
・民事で感情が考慮された事例は見当たらない.
・交通事故,死刑事案など刑事訴訟では感情を「考慮」される.刑事訴訟法が英米法の影響を受けたことも関係あるのかな?.陪審制も刑事のみ適用やしその方向で考えてかまわんだろう.
・憲37「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」 (これが刑事において公平が議論できる根拠かな)
・裁判員制導入により,司法に感情を持ち込むことができるようになった.しかし感情は法判定の主要要件ではない.
・裁判員制度 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%93%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6
組織化は自由と責任を個人から切り離してきた。これは法と逆である。この差を中和するために裁判員制度を導入し,個人に責任を持たせた,という見方はできるか?
「「国民に身近な司法を」という目的には「他の先進国と比べ、日本は司法が身近ではない」という前提がある。しかし、司法制度はそもそもがその国の歴史、社会的状況が反映された結果として形作られるものであるが、「司法が身近ではない」という形式を重視して導入が決定された結果、「誰にも望まれていない制度」となってしまった感がある[11]。」
司法は歴史等から形成されるのはその通り。組織化と法の乖離があるから,それを折衷するための司法は身近にする必要があり,「望まれていないとしても」裁判員制度が必要と思う。
冤罪論は裁判員制度自体とは直接関連は無い運用の問題だと思う。冤罪論は,裁判官が冤罪を生むときは自分に責任がないので問題なく,陪審員が冤罪を生むときには自分に責任があるので問題となる,との,自分本位の考え方ではないか?。これは本件問題にもつながる,法は自分と関係ないという考え方では?.責任逃れは組織化の派生要素。著者は,権利化>法と考えるのかな?・・・読み込み中)
・裁判員制度と陪審員制度の違い http://www.compumag2005.com/saibanin6.html
陪審員制度の場合には、一般市民でも十分に判断できるような材料が揃っていて、証拠をもとにして裁判官から独立して有罪無罪を判断することができる場合もあります。
また被告から、陪審員裁判か裁判官裁判のどちらかを選ぶ権利があります。日本で取り入れられた裁判員制度では、裁判員に課されている責務として、有罪か無罪かを決めることだけではなくて、被告の量刑まで判断します。
これは、法律的知識と経験のない一般市民には非常に大きな負担ともいわれます。」
・裁判員の参加する刑事裁判に関する法律 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H16/H16HO063.html
おや,裁判員裁判は地裁限定だったのか.現在はまだお試し期間という意味か,権限を持たせないという意味か.
「(裁判官及び裁判員の権限)
第六条  第二条第一項の合議体で事件を取り扱う場合において、刑事訴訟法第三百三十三条 の規定による刑の言渡しの判決、同法第三百三十四条 の規定による刑の免除の判決若しくは同法第三百三十六条 の規定による無罪の判決又は少年法 (昭和二十三年法律第百六十八号)第五十五条 の規定による家庭裁判所への移送の決定に係る裁判所の判断(次項第一号及び第二号に掲げるものを除く。)のうち次に掲げるもの(以下「裁判員の関与する判断」という。)は、第二条第一項の合議体の構成員である裁判官(以下「構成裁判官」という。)及び裁判員の合議による。
一  事実の認定
二  法令の適用
三  刑の量定
2  前項に規定する場合において、次に掲げる裁判所の判断は、構成裁判官の合議による。
一  法令の解釈に係る判断
二  訴訟手続に関する判断(少年法第五十五条 の決定を除く。)
三  その他裁判員の関与する判断以外の判断
3  裁判員の関与する判断をするための審理は構成裁判官及び裁判員で行い、それ以外の審理は構成裁判官のみで行う。」
おや,「解釈」は裁判員の権限からはずされているのか.ということは,裁判員の権限はかなり弱いといえるな.
あたしゃ,裁判員に解釈権限を持たせるべきと思う.法は一応合意の上に成り立つが,解釈は研究の上に成り立つ.研究と合意の折衷は必要ではないか?.
まあ,将来的にそうするつもりと思うけど.全体的に見ると,お試し期間中の暫定,といった感じの法律だなこれ.
いや,裁判員制度の目的を,本当に「司法参加による国民の法の理解の向上」とだけ,と考えているなら,このままか.
・子殺しの裁判員量刑を否定した最高裁判決
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/339/084339_hanrei.pdf
法の元の平等について.量刑の公平が必要との原則.裁判員の量刑裁量はみとめている.
全体的には,裁判員の量刑はみとめることもできるが,公平前提の主張とはならなかったので,やむなく裁判員による量刑を否定した,という判決か.
裁判員の主張を法適合させるのは,1,2審の裁判官の役割であったろう.今回量刑適用できなかったのは,裁判官の腕不足だろう.
最高裁含め,皆がこの最悪の犯罪に対し懲罰的量刑を許容できたろうに,惜しいことだ・・
・・・最高裁はこの場合,差戻しはできなかったのかな?
・政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことができない。 (トーマス・マン)
感情が法を上回る例は,刑事にみられる.

慣習と法令
・作業仮説:法令>慣習? 国際差は?
・作業仮説:
・慣習法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A3%E7%BF%92%E6%B3%95 「法令による規定のない事項について慣習に効力を認めるものであることから、法令と慣習法との間に矛盾がある場合は、一般原則として、法令の規定が優先する。」
「上記の通則法3条とは別に、民法92条にも慣習の効力に関する定めがある。これによると、任意法規(当事者が異なる特約を設定することが認められる規定をいう。)と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者が、この慣習による意思を有するものと認められる場合は、慣習による意思の方が優先して適用される。」
「商法の分野では、商法1条2項が商事に関する慣習法(商慣習法)の地位につき定めている~これによると、商法の規定が最優先するが、商法に規定がない場合は商慣習法が適用され、商慣習法がないときは民法が適用されることになる。つまり、商法に規定がない事項については、民法に該当する規定がある場合でも商慣習法が優先して適用される建前である。」
「しかし、今日では、行政機関の慣習として、慣習法の成立の余地を認めるのが通説である。例えば、既に存在する行政法規に反しない慣習については、慣習法が成立する余地がないわけではなく、特に公物利用権に関しては地域的な慣習が、行政機関の判断基準としての慣習法として認められる例があるとされる。」
・法の適用に関する通則法 基本.法>慣習
民法,商法,その他限定的に慣習>法
・宗教上の慣習84は保護
・憲12「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」 (権利の上にあぐらをかいてはならない.自由・権利濫用はどこまでを意味するか定義がわからんのう.権利行使者の受ける利益と相手方の受ける不利益の客観的利益衡量が基本?.各法条文に十分に表現されている?(民1,その他公務員など高い権利のあるものの義務).慣習法たよりの部分もあり?.)
・憲13「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
公共の福祉  重要だが様々な学説あり.人権衝突時の調整は最低限?.「近時の学説では、人権の制限根拠を人権相互の矛盾・衝突の調整に限定せず広く認めた上で、より詳細な類型論によって公共の福祉の意味を限定しようと試みられている。」
・民1「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。2  権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。3  権利の濫用は、これを許さない。」
・民2「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。」
・民90公序良俗「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」(公の秩序(社会の一般的秩序)および善良な風俗(社会の一般的道徳観念)のこと。法律行為が社会の一般的秩序または社会の一般的道徳観念に適合していなければならないことは、法の一般原則である。したがって、公序良俗に違反する法律行為は無効とされる)
・民法に公平の記載なし.平等の記載あり.
・「個人の生命身体精神および生活に関する利益は各人の人格に本質的なものである.このような人格権は何人もみだりにこれを侵害することは許されない(大阪高判昭50)」
・「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない(例えばいわゆる尊厳死を選択する自由は認められるべきである。)。)(東京高判平10平成9(ネ)1343 損害賠償請求事件 )(最高裁平12)」
・ボアソナード「単に外国法を丸写しするような法律の起草には反対して、日本の慣習法などを斟酌して日本の国情と近代的な法制との合致を重んじた態度で法典整備を進めるべきだと主張して、時の司法卿大木喬任から信任を得て、日本の国内法の整備にあたる様になった。」
・『全国民事慣例類集』http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/786945
・民法典論争http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%85%B8%E8%AB%96%E4%BA%89
・『民法出デテ忠孝亡ブ』「我国ハ祖先教ノ国ナリ。家制ノ郷ナリ。権力ト法トハ家ニ生マレタリ」 組織化と家
・施行延期派は天皇制に絡めて日本の伝統を基にした論陣をはり個人主義的な施行断行派を批判し、施行断行派はフランス法的自然法思想と市民法理論をもって反論を加えた。
・法典調査会
・『民法出デテ忠孝亡ブ』の主張が、穂積八束自身も法典調査会査定委員として参加した民法典編纂の結果に実際に反映された様子はほとんど見られない,そればかりか、旧民法よりもむしろ個人主義的な方向性で起草されたとの指摘もあり、自由主義的な旧民法が、明治民法により全体主義に傾斜したという理解は一般的ではない。 (与えられた法.1960以降の最近の解釈では民法はドイツ法よりもフランス法の影響が強いとみなすのが一般的だそうな.立法趣旨はボアソナード参照すると.)
http://ci.nii.ac.jp/els/110006262164.pdf?id=ART0008279377&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1361760125&cp=
慣習が法を上回ることは,限定された条件下のみ.法に規定のない部分については慣習の適用がある.

人権と感情・道徳・倫理・慣習
・作業仮説:私法概念は人権と権利に分け考えるべきだろう.
・作業仮説:人権>慣習>=道徳=倫理>感情? 国際差は?
・道徳ベースとした人権感覚の育成が,学習指導要領に取り入れられている.
・人権 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
「人権に関わる要求や宣言の歴史を見てみると、イギリスでは、1215年にマグナ・カルタ、1628年に権利請願、1679年に人身保護法、1689年に権利章典があり、これらは封建領主が自分たちの要求を国王に対して認めさせたものであったり、イギリス人の伝統的な権利や自由の尊重を求めたものである。絶対主義的で暴力的な権力から自分たちを護るため、個人の権利を護るためにこれらの要求が行われたわけである。これが近代的な人権思想誕生へとつながり、18世紀に市民革命が起き、1776年に米国でバージニア権利章典、1789年には(フランス革命でフランスの暴力的な絶対王政を倒しつつ)『人間と市民の権利の宣言』が成立した。」
日本においては、人権そのものが、根拠・命題と自然法論で主張される(トートロジー)。これが日本においては個人の尊厳に求められる。日本国憲法第13条の「個人の尊厳」はこの意味に解される。この場合、人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられるという法学者が多い。一方で、法実証論においては、人権の根拠は単純に法律(ほとんどの国では憲法)にあるとされる。」
時代によって人権の意味が変わってくるため、その権利を固定的な意味で捉えるのは適当ではない(人権の相対性)。」
「人権の制限:公共の福祉(実体法による制限の可能性),対人間効力」
「人権侵害:例:地域差別」
・組織化は差別を生む.人権は差別を許さない.
・差別,偏見は,組織化の一部.事実を優先しない,社会維持を優先させるシステムの一つ.差別,偏見は,個人より社会を優先させる場合は,有効に働く.
人権は公平から平等への変遷を経てきた(人権を,平等実施システムである法に組み込んだため).組織化は公平のまま(組織化は充分法に組み込まれなかったため).ここにポイントがありそうだ.
・「法」を人権と私法に分け,人権>私法>(<)組織化,としておくべきか.
・世界人権宣言 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
「世界人権宣言の第29条は民主主義的社会での義務と道徳について、同30条は宣言に定められた権利を破壊する権利を禁じている。国際人権規約の自由権規約の第19条は表現の自由について『格別の義務と責任』を持って行使されることを明記し、同第20条は差別や暴力を唆す国民的、人種的、宗教的憎悪の提唱を法律で禁止することを規定している。このように権利には義務と責任が不可分であり、乱用は許されず、他人の人権の保護と促進が重要であるという観点から、国際連合教育科学文化機関は1998年に世界人権宣言採択50周年を記念して『人間の義務と責任に関する宣言[』(en:Declaration of Human Duties and Responsibilities)を採択した。」
・世界人権宣言と国際人権規約 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/kiyaku.html 
「社会権規約第四条は、権利の性質と両立していること、民主的社会における一般的福祉を増進することを目的としていること、法律による制限であることの 3 つの条件を付して権利に制限を課すことができることを認めています。 このような権利の制約は、基本的には憲法に規定している公共の福祉による制約と同じ意味と考えてよく、それらは前にも述べたように権利そのものに内在する制約原理を明らかにしたものと考えられます。」
・(未調査)

人権と権利
・作業仮説:人権>権利.国際差は?
・作業仮説:私法概念は人権と権利に分け考えるべきだろう.
・作業仮説:組織化においては,権利と人権の混同,組織化上の要求と権利の混同が起きているようである.
・(未調査)

倫理観と慣習
・作業仮説:通常は,その国の慣習=その国の倫理観.倫理観が外部導入されることにより乖離. 国際差は?
・作業仮説:慣習から倫理と道徳が生まれる.輸入された倫理と道徳は慣習と異なり完全には定着しない.
・(未調査)

英米法の契約と大陸法の契約と日本の契約
・作業仮説:私法概念は人権と権利に分け考えるべきだろう.
・作業仮説:人権は人権の衝突時に制限を受ける.契約自由の原則を元にした個人的な契約は人権の手の届く範囲に制限を与えうる.契約の国際差は?
・作業仮説:英米法の法は契約を中心に成り立っており,法≒契約を意味する.大陸法の法は契約の上位概念であり,契約は民法の一概念である.日本の法は契約の上位概念であり,契約は民法の一概念であるが,契約は重視されていない.
・契約 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E7%B4%84
「「契約」は狭義には債権契約のみを指し、広義には物権契約及び準物権契約を含むが、ドイツ民法やフランス民法が一般に広義の意味の契約を指しているのに対し、日本民法の「契約」は一般には狭義の意味で用いられている[2]。~なお、英米法の契約の概念については、大陸法における契約の概念と多少異なる特徴を有する。」
(国際的な概念の差はあるようだ。歴史的背景は?)
人間は集団社会を形成する生き物であり、歴史の中で人間関係においては合意はもっとも尊重されなければならないとする契約遵守の原則が確立されてきた[4]。
(より詳細な歴史的背景は?。日本では?)
「契約の拘束力は前近代の社会から認められてきたが、それは身分的覊束関係と密接に結びついたものであった[4]。しかし、近代社会においては、人間は自由で平等な法的主体であり、その自由な意思に基づいてのみ権利の取得と義務の負担が認められるべきであると考えられるようになった[4]。これを表現する語として、イギリスの法制史家であるメーン(Maine)の「身分から契約へ」がある[5]。法的には資本主義経済の下での社会は、貨幣経済が高度に発達し、商品流通過程においては売買契約、資本生産過程においては雇用契約(労働契約)の二つの契約が中核をなし、このほか他人の所有する不動産を生産手段として利用するための賃貸借契約、資本調達のための金銭消費貸借契約なとが重要な機能を果たしている[6][7]。
近代以後、自由な意思に基づいて締結されている以上は、人と人との合意はいかなる内容であっても絶対的なものであるとの契約至上主義がみられるようになったが、一方で契約当事者が対等な地位でない場合については不合理な内容の契約が締結されるといった点が問題化し、現代では著しく社会的妥当性・合理性を失する契約は公序良俗違反あるいは強行法規違反として拘束力が否定されたり、事情変更の原則などによって是正を受けるに至っている[8]。」
契約絶対を前提として平等の観念からのいくらかの制限とすると,人権においては平等が前提にあるため契約絶対としてよい,権利においては契約絶対とは限らない,でよいか。近代以後の契約至上主義とすると国際差は?。より細かい歴史的背景は?)
・(未調査)



とりあえずのまとめ(検討からの最新情報になっていないことがある)
・全体的に見て,組織化が「法」を上回るとする事例,上回るべきとする事例は見つからない.
・人権は組織化を確実に上回る.組織化の必要性から人権を制限することは,国際的にもすでに許されるものではない.
・私法は基本的に組織化を上回る.だが例外はありうる.
・人権(人権衝突時は制限) > 法令,法権利(外部の慣例・倫理を多く含む),慣習法(変化) > 組織化(日本の慣例・倫理)のうち法に規定されるもの,慣習法とまでは言えないもの > 個人感情?

1「法」と組織化,どちらを重視するか?
適用法がある事例では法>組織化,適用法がない事例では要検討.組織化を慣例として適用する説得力があれば司法適用は可能かも.組織化を適用させたければ立法に影響を与える必要あり.と考えるべき.ってとこでとりあえずまとめとくか.

2 個人の自立が必要な「法」を適用させつつ,個人の曖昧化が必要な「組織化」を適用する.同一個人にこの両立は可能だろうか?.
・「法」では平等の概念から人権強く主張し,その下に法令で与えられる権利が発生する.「組織化」では人権と権利を区別しない.
権利衝突時の判断を,法で行う場合と,組織化で行う場合で,結論が異なる.両立させた場合は結論に満足できない.
・両立は難しいようだ.
どの結論でも満足できないが,司法の判断に任せるしか無いといってよいか.
・法と組織化は乖離しているが,組織化の一側面である道徳は条文化すべきでないという.日本は,司法判例を判例法としてより積極的に適用するとよいのではないか。日本式のエクイティを取り入れることを成文化すべきかもしれない.今のところ,刑事事件以外には根拠条文見つからない.
・裁判員制度はその意味で最適なのかも。そもそも刑事訴訟に裁判員制度を導入した趣旨はこれかな?

3 組織化には利点と欠点がある。利点をみて組織化を賛美し,欠点を見て組織化を排除する。これを同一個人が同時にやってのける。この思考方法は,どのように形成されるのか?
・助け合いを賛美し,いじめを非難するなど。
・(調査中)
・妄想:穢れ思想かな?。組織化から生まれる,自分には責任が無い(薄い)とみなす思考方法?。法と組織化を同時に適用することから生まれた考え方?それ以前は?。国際的に異質な考え方といえるのか一般的な考え方か?。組織化において,欠点だけを除くことができるという考え方?。組織化において,欠点だけを弱めることができるという考え方?。結果だけから判断し,それら結果が同一のシステムから派生している可能性やプロセスを考えない,問題提起をするが問題解決しようとはしない思考であるだけ?(これは組織化から派生しているのかと考え元に戻る)
・(把握した上で積極的無責任を採るのか,把握しないで無知でいる自由を享受しているのか,その2つに文化差はあるのか,を,知りたい。)(「知ると責任取らないといけないから知りたくない」,ってよく聞くかも・・・)
・法では,善意か悪意か(知っていたかいないか)が要件でよく問われる。組織化においては知っているかどうかはどう判断されるのか。また,英米では法と同じか?
・法律用語としての善意・悪意 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%84%8F#.E6.B3.95.E5.BE.8B.E7.94.A8.E8.AA.9E.E3.81.A8.E3.81.97.E3.81.A6.E3.81.AE.E5.96.84.E6.84.8F.E3.83.BB.E6.82.AA.E6.84.8F
・表明保障責任




・ポイントは,自然に人に与えられる(部分の)平等と,社会形成のための作り上げた公平,これら混同,かな。
人の公平は人の平等へ移行した。社会の公平は社会の平等へは移行できない。
人の平等と,社会の公平を,きっちりと分けて理解できているかどうか。
人の個人化と,社会の全体化.
・ロックがいい例かも.表現者自身の平等からくる個人的主張としてのロックと,社会化され批判を受けることもあったロックは,立場が違う.社会的平等としてのロックの主張はロックの本質と違う.個人の主張を全体の主張とすりかえ,って感じか.



・本件疑問のほとんどは,民法典論争時になされている気がしてきたぞ。
きっちり民法典論争読み込もう。






検討メモ

・「自己責任」の社会と行政法(元最高裁判所判事)
http://www.law.tohoku.ac.jp/~fujita/gakuinkoen.html
「そして、この「自由かつ自律的な社会」を成り立たせ、支えるものこそが、「自己責任原則」なのであって、それはすなわち、自己のことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う、という原則であるに他ならない。」
「日本国憲法の制定により、我が国においては、西欧流の近代的な市民社会の成 立を前提とした、自由主義・個人主義的国家システムの構築が行われた筈であっ たが、現実には、日本社会に残る様々の集団主義的要素(これは、しばしば、 「ムラ」的要素とも呼ばれる)により、必ずしも、その徹底は見られなかった。 」
「要するに、「個」ないし「私」を殺し(あるいは少なくとも抑え)、自らの運命を、いわば無条件に集団(そしてそれを代表するオヤブン)に委ね(預け)、そして他面、この集団ないしオヤブンは、(これらの者が、この集団の掟ないし生活様式に忠実である限り)理屈抜きにどこまでも面倒を見なければならない、という社会のあり方である。このような社会においては、全員の「合意」ないし「和」が、ことを行うための前提となるところから、一部の指導者に一方的な権力行使が認められている社会よりも、一見、個人の意思がより尊重されているようであり、従ってより民主的であるように見える場面も登場する。」
組織化においては,個人が自由を自ら制限することにより責任を逃れ,自由を管理機構に譲渡し責任も移譲する.
結果として,人権すら管理機構に譲渡している.結果,自分の責任すら自分でとる感覚がなくなる.
組織化と人権は並び立たない?
日本の本来の感覚からすれば,人権は不要なのかもしれない。
とはいえ基本的人権までは不要化,委譲出来ず・・・
感覚としては記載された通りだが歴史的他根拠がほしいな・・・
(・地裁裁判員裁判で決定した死刑を高裁が否定する事件が2件ほど起きている.
(判決はまだ公開されていない??)
プラクティス
刑事は,個人と社会の折衷である.刑事は,「社会合意のある範囲」において,人権の制限を認め,罰を与える.
基本的人権まで制限できるか議論がある.死刑など.
死刑は,欧州人権裁判所等の判断では人権侵害である.日本は,世論の要求があるとして,死刑制度を維持することを表明している.
高裁は世界基準の人権ベースでの判断(直接の論拠は先例)をし,裁判員は世論ベースで判断している.?
やはり,日本には人権はそぐわないのかもしれない.少なくとも欧米並みの人権は.しかし人権は天賦扱いだから,属地性主張困難.
人権に関する「社会合意の範囲」を,世界標準とすべきなのか,日本限定して良いものなのか.
「社会合意のある範囲」が法に定められているのであれば,それほど議論とはならないのだが.
・国際的死刑廃止時代の到来 ー条約紹介ー http://www.ls.kagoshima-u.ac.jp/ronshu/ronshu1/45/ronbun/A03890813-00-000450215.pdf
とはいえ,裁判員制度の目的は世論参照なのだから,今回は属地性主張を採用し,死刑にするべきでは?.そうしないのは医療におけるエビデンス最優先の考え方に近いと思われる.?
死刑の場合,先例を裁判員(裁判)の判断より優先させるべき,という,最高裁判所司法研修所の報告書があるようだ.
法が存在すれば,裁判員判断より法を優先すべきとして良いだろう.しかし,今回は明確な法は無く,大陸法において先例は法ではない.法の解釈の問題となる.
裁判員裁判の判断より先例を優先すべきとする根拠がないように思える.いや,先例とは最高裁判決を言っているのだろうか?.日本では最高裁判決は,英米法下の判例とほぼ同じ効力,実質的に法と同じ効力があるが・・・
論拠確認中・・・
(ニュースによると,衡平を論拠としている?.いや,衡平をいうならば,裁判員制度以降の衡平を論拠とすべきであり,それ以前との衡平を論拠にすべきではないのでは??)
・裁判員裁判における量刑評議の在り方について 内容説明(司法研修所編(司法研究報告書第63輯第3号)2012年10月発行) http://www.hosokai.or.jp/item/annai/data/201210.html
ふむ,裁判員制度の環境整備が不十分であるという指摘か? 確認中
・平成22年度司法研究「科学的証拠とこれを用いた裁判の在り方」について (司法研究所 2013年1月)
 http://www.courts.go.jp/saikosai/vcms_lf/H22sihokenkyu.pdf
・科学的証拠とこれを用いた裁判の在り方 内容説明(司法研修所編(司法研究報告書 第64輯第2号)2013年5月発行) http://www.hosokai.or.jp/item/annai/data/201304.html
・難解な法律概念と裁判員裁判 内容説明 (2013年9月重判) http://www.hosokai.or.jp/item/annai/jyuhan/jyuhan_201309.html
うーん,高裁は,法の安定性が崩れることを心配し過ぎているのかのう?.個別事情が大きい刑事に,法の安定性なんていらない(おい)と思うのだが.)
「また、一部の強者の突出を許さず、集団の構成員全体に利益を平等に配分することを重視することから、場合によっては、より社会(主義)的であるように見えることもある。そういった意味で、上手く行く限りにおいては、この社会は、個人的自由主義・民主主義を基盤とする西欧社会に比べて、その良いところはこれを備え、他方その弱点はこれを克服した、理想的なシステムを備えた社会として機能し得る面を持つ。
しかし、この一見した民主性は、実は他面で、大勢に対し個人が正面切って異論を述べる事態があり得ることを前提ないし想定しないものであり、その意味において西欧流の民主主義とは大いに異なり、また、一見した社会(主義)性は、そういった利益の配分が、専ら、特定の集団内部限りでの配分としてのみ考えられ、集団外の者に対しては、むしろ徹底的な差別を以てすら臨むことを許すものである点において、西欧流の博愛・平等の精神とは、これまた大いに異なるものであった。
 今我が国社会が求められているのは、こういった意味での集団主義的・団体主義的色彩に染まった、あらゆる制度及び人の改革なのであって、行政改革というのも、こういった背景を持ったものであることに、特に留意をしておくことが必要である。こういった要請は、明治維新そして第二次大戦における敗北に際して、西欧諸国から最も鋭く突きつけられたところであり、我が国の近・現代史は、基本的にはまさに、国を挙げてそれに応えようとする過程そのものであった。しかしその成果が未だ不十分である、ということが、21世紀を目前として、再度、白日の下に晒されつつあるのだ、というべきであろう。」
(認識は同意,本旨そのもの.
しかし,私はこの結論には非同意。自分は集団主義的な組織化の改革までは必要とは考えない.そう考えない理由は,法が属地主義を採る以上,国ごとの法の違いは許容されるべきであること,慣習(≒文化。以下文化とする)の最低限を法,とすべきであり,法を文化にすべきではないこと,そして,組織化は日本の文化に適合した制度であると思うことからだ.
組織化に欠点は多くある.が,大前提として,「私は」個人主義の日本なんぞ住みたくもない
これが一般的感覚かどうかはわからない.
たとえば,過度ないじめは組織化により派生する欠点の一つである。いじめを無くすために,組織化による利点,相互助力の文化という利点全体を捨て,個人主義への移行を進めてもよいと考える人もいるだろう。私は,組織化から個人主義への移行は,失う利点が多すぎるため,それを検討するより先に,まず欠点の軽減化を考えるべきと考える。つまり,いじめについては,存在自体は許容し,程度を軽減する方法を考えるべきだと考える。
文化を捨ててまで世界にあわせる必要があろうか。法と組織化の折衷が現実論であり理想と思う.ただし,人権のみは世界にあわせる必要があるだろう。「新しい人権」についてどう考えるか・・・)

・「自由は冷たくて寒いものだし,束縛は温かいが腐臭がする」(?).
組織化は,「自らが好んで自由を生贄に差し出した結果として得られる,合意のある束縛」であるといってよいか.自由を生贄にしておいてなお,それを持っていると思い込むことに問題?.
刑事罰は,社会安定のために社会を形成するすべての人が一部の自由を差し出した結果の束縛.組織化と法双方に影響するか.差し出す自由の強度と量が問題?
・いじめの解決手段は,組織化を強めることではなくて,自由を組織側が理解することなのだが,そう理解はされることはあまりない.いじめの解決方法に皆仲良く,という手段をとるならば,永遠にいじめは無くならないだろう.
異質性を許容するのは協調でなく尊敬である.尊敬は個人間の関係である.
・司法判例を判例法として積極的に適用するのが,最もよい方法とやはり思う。日本は司法の監視制度が無いことが気になるが.まあ,判例を拡大解釈しないようにすればよいのではないかな.
・「@Kanpishi
幼いとき父母におざなりにされるとその子は成長して父母を恨む。子どもが働き盛りとなったのに親の養いをおろそかにしていると父母は怒って子を責める。子と親の仲でさえ責めたり恨んだりすることになるのは、人の為にしている(から相手もそれに報いてくれて当然)という気持ちが強いからだ」
尊敬無く協調のみの場合の帰結.

・グループは同一性を持つ集団で形成され効率を求めるもの.協調が重要視され,個体差があることは好まれない.
チームは異質性を持つ集団で形成され問題解決を求めるもの.個体の能力の高さと互いの尊敬が重要視され,多様性の無さは好まれない.
グループは解決することに向かない.チームは効率的な作業に向かない.
・チームから始まりグループへ移行し,チームに戻り・・・を繰り返すことが理想であろう.
・集団は,それが最初チームであったとしても,時とともにグループと化し,保守化する.問題解決を求めるなら「古い何か」を壊さなければならない.
・チームを成り立たせるものは尊敬である.異質性を許容するのは協調でなく尊敬である.協調と尊敬は異なる.
・尊敬が失われるとチームは崩壊する.尊敬なくともグループは形成できる.グループにおいて尊敬の代わりとなるのが協調=社会化.社会性に尊敬が伴わないのは・・・.
・組織化はグループによるものであり,チームによるものでないだろう.法を活用できるようになるにはチームとなる必要があり,それには個人間の「無条件な」尊敬を前提とした社会が必要となるだろう.

・漫画家は慣習として,出版社と締め切りの契約書までは結ばない.漫画家は言い訳上手になるが,罰則が明確で無いので恐れず質の高い結果をだそうとする.私法に縛られていないからこそ,職人的な質の高さが維持でき,それが日本の特色となっている?.組織化という慣習は無くしてはならない?
・法と職人気質,技術
・作業仮説:職人気質はギルドや徒弟制を生むため組織化に近く,「法」とは乖離する.
・作業仮説:英米法では職人の組織化が受け入れられ,大陸法では受け入れられにくい?
・作業仮説:日本の考え方のベースは職人気質に寄る組織化?
・作業仮説:職人気質は文化である.職人気質はある程度の余裕と曖昧さがあってこそ成り立つ.日本の組織化は職人気質を強調した.日本の工業化は職人気質から生み出された.日本の組織化を否定すると工業力が低下し発展が阻害される.組織化を弱めつつ職人気質を維持できるか?.職人気質維持に特許は重要?
・明治の煙火製造について―法規制と職人の誕生― http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/shiminbenri/kosodatekyoiku/bunkazai/tenji/kako/p003319_d/fil/0082_013037_meiji.pdf
・弁護士はビジネスマンか職人か。 http://www.takahashi-law.com/news/2011/03/post-852.html
・自営者層の統計的分類(1)フランス官庁統計における「職人」 ousar.lib.okayama-u.ac.jp/file/41974/oer_019_1_203_218.pdf 
・・・適当な例がないな



その他
・ドーピング問題に関していくつか
http://nishizonoryota.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html?spref=tw
・「社会科学は役に立たない」という信念は、自己成就的予言となっているー『日本の社会科学を批判する―OECD調査団報告』(講談社学術文庫) http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-86.html
・言論の自由と著作権の衝突について http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/conflic.htm
・知的財産と人権の関係
http://www.jpo.go.jp/shiryou/toushin/chousa/pdf/tripschousahoukoku/24_all.pdf
比例性の概念
・自由主義のパラドックス リベラルパラドックス 自由の制限 最小の自由 http://en.wikipedia.org/wiki/Liberal_paradox
・自由主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9
社会契約論確認「自由な政治と経済体制のもと、自由な市民による自主的な合意によって制定される「法律」と、自由な意思を持つ個人どうしの自発的で主体的な裁量によって結ばれる「契約」によって初めて、各人がこの「所有権」を保障され、自分自身や自分が自由に生きるために必要な自分が占有できる財産を得るのだと主張した。「政府」の真の役割とは、こうした個人の権利を「守る」ことに限定される。これを破ってその国家権力を乱用し人々の自由を奪った時には、市民が抵抗権・革命権を行使しその政府を交代させる権利を持つのだと主張した(社会契約説)。」.日本の法律は実質的に自由な市民の合意じゃないように思える.自由な市民がいないから.個人の独立を認めた上での自律的自由と,個人の独立を捨て去った上での依存的自由.
「なかでもケインズは「自由放任の論拠とされてきた形而上学は、これを一掃しようではないか。持てる者に永久の権利を授ける契約など一つもない。利己心がつねに社会全体の利益になるように働くというのは本当ではない。各自別々に自分の目的を促進するために行動している個々人は、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある」と述べ[7]、アダム・スミスに由来する「見えざる手」に信頼する自由放任論からの脱却を求めるとともに、具体的には不完全雇用均衡からの脱却のための経済政策が、政府によって実現されることを求めた。」
・民主政治は最悪の政治形態だが、それは他よりましなのか http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2013/10/post-744.php
「アメリカ独立革命(1776年)のあと起こったフランス革命では、主権在民の思想のもとに王制が倒されて共和制になったが、恐怖政治と流血の惨事のあと、わずか5年でナポレオンの独裁政治になり、ナポレオン戦争を含めて490万人の死者を出した。
 こうした状況をみたエドマンド・バークなどのイギリスの政治家は、国民が法を超える「主権」をもつという思想は危険であり、主権がナポレオンのような独裁者に譲渡されると容易に独裁政治に転じる、と民主政治のリスクを警告した。その結果、合衆国憲法には「国民主権」も「天賦人権」も規定されていない。国家の究極の決定は、非人格的な法の支配によって行なわれるからだ。」
そうきたか.戦後は?
・人権と統治機関の関係についての一研究 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/6395/1/A05111951-00-031000285.pdf

・「日本国憲法
第三章 国民の権利及び義務
第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
基本的人権><憲法>自由・権利v公共の福祉,国民の保持義務(生命自由幸福の権利(人権含む?),立法等のによる最大の尊重v公共の福祉)
人権と憲法の上下関係が議論とできるところか?.
日本の人権は,「解釈」の余地が広いため,何を準拠して具体的な人権とするか決めかねるところが難しいかな.普遍的保障,地域的保障,欧州人権条約,属地性主張,すべて準拠可能となっている.?
・アメリカ合衆国憲法 http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-constitution.html
判例法の塊,法典だなこれは.類推の余地が殆ど無い.
・欧州人権条約(人権及び基本的自由の保護のための条約(ヨーロッパ人権条約),  213 U.N.T.S. 222) http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/Jz17euroco.html
・国際人権法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E6%B3%95
国連憲章において人権保護が規定
1948年の国連総会において採択された世界人権宣言
国際人権法は、二つに分類することができる。普遍的保障と地域的保障である。
普遍的保証:「第一に、普遍的保障であるが、これは、国連システムと条約制度に分けられ、いずれも強制力をもった履行手続きを備えていない。」国連人権理事会.「発効に伴い批准した国に法的拘束力を有する条約制度として、世界人権宣言を条約化したといわれる経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)と市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)があるが、特に発達している自由権規約の制度においても、自由権規約第1選択議定書の下の個人通報制度では、規約人権委員会は、法的強制力のない「見解」(views)を述べる権限を有するにとどまる。他にも、国連の下で作成された条約として、1965年の人種差別撤廃条約、1979年の女性差別撤廃条約、1989年の児童の権利に関する条約(こどもの権利条約)、1990年の全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約、2006年の障碍のある人の権利に関する条約などがある。これらの条約も個人通報制度について定めた選択議定書や規定を持ち、それを批准ないしは受諾する締約国に勧告を行う委員会を有するが、自由権規約と同様、強制力のある決定を下す権限は付与されていない。これらのほか、1948年の集団殺害罪の防止および処罰に関する条約、1951年の難民の地位に関する条約と1984年の拷問等禁止条約、そして2006年の強制失踪防止条約もそれぞれ国際連合総会決議の形で採択された。」
地域的保証:欧州人権条約(人権と基本的自由の保護のための条約)、米州人権条約、人及び人民の権利に関するアフリカ憲章(アフリカ人権憲章)「欧州人権条約は、欧州評議会の下、第二次世界大戦のような大規模な戦争を再び起こすことを防止する目的で1950年に作られた。」「米州人権条約は、米州機構により1969年に欧州人権条約にほぼ倣ってつくられた制度であり」
国際人権法の最大の課題は、その国内的実施である。特に、各種人権条約の国内法秩序への直接適用性(direct applicability)が問題となる。
日本においては、次のようになっている[2]。
自由権規約(ICCPR)については、
1997年の国連人権委員会における外務省が作成した日本政府第四リポートで、特定の条項はその目的、意味、用語の使用法に従って直接適用されることが示されたが、これに対する法務省の見解では逆に、ICCPRは自動執行力がないとされた。
実際には、国内判例において、1994年4月27日大阪地裁判決、1993年2月3日東京高裁判決、1997年3月27日札幌地裁判決ほかで関連条項の直接適用性が認められた。
社会権規約(ICESCR)については、
これが漸進的性格を有するゆえに、原則として直接適用性は認められないとされており、1984年12月19日最高裁判決(「塩見事件」)でもICESCR第9条の直接適用性が否認された。
しかしながら、社会権規約委員会の一般注釈第三番(General Comment No.3)ではICESCR第2条の差別の禁止等、特定の条項は即座に実現されるべきもので自動執行力があるとされ、そのようなオランダの国内判決の例もある。
女性差別撤廃条約の直接適用性については、意見が分かれている。法務省は、条約当事国の意思、条約の文言及び起草過程でそれが明らかであれば、条約の直接適用は認められるという立場をとっている。
人種差別撤廃条約の直接適用性については、外務省は、条約のいくつかの特定の条項は直接適用されることをはっきりと認めている。」
難しい.
・国際司法裁判所 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8F%B8%E6%B3%95%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80
「裁判[編集]
準則[編集]
国際司法裁判所規程38条1項は、「裁判所は、付託される紛争を国際法に従って裁判することを任務とし、次のものを適用する」と規定する。すなわち、ICJが紛争の平和的解決のために適用するのは国際法である。
そして適用されるものとして、同条同項には以下が列挙されている。
a 一般又は特別の国際条約で係争国が明らかに認めた規則を確立しているもの
b 法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習
c 文明国が認めた法の一般原則
d 法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説
すなわち条約、慣習法、法の一般原則に基づき裁判がなされ、そしてそれらを明らかにするために判例・学説が援用される。
また同条第2項では、当事国の合意がある場合には、「衡平と善 (ex aequo et bono)」に基づき裁判することができると規定している。この場合の「衡平と善」とは、「法に反する衡平」(Equity contra legem)のことである。英米法のエクィティと同じものと考えて良い。
衡平は世界基準でない,と.まあ,衡平は目指す理念であり,目指す衡平の程度も異なり,現状衡平などないため,それはそうか.
・国際連合人権委員会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A


・「憲法と国際法(特に、人権の国際的保障)」 に関する基礎的資料 2004.4 http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi050.pdf/$File/shukenshi050.pdf
「『第一世代の人権』とは、「国家は個人の自由の干渉を一切してはならないとい
う消極的な権利」であり、『第二世代の人権』とは、「これとは対照的にそれらの
実施のために国家の積極的な行動を求める」権利を指す。一方、『第三世代の人権』
とは、「発展の権利、健康でバランスの取れた環境への権利、平和への権利、そし
て人類の共同遺産を所有する権利」をあらわす。 
 「発展の権利 60」に代表される『第三世代の人権』は、従来の人権が個人の権
利として国家との関係で考えられたのに対して、①個人的側面と集団的側面の双
方を備えている、②従来の人権(自由権的人権のみならず社会権的・生存権的人
権も含め)を保障する前提基盤という性格をもつ、③一国だけによっては保障さ
れず、国際社会全体の協力(連帯)を前提としてはじめて主張されるところに特
徴がある。 
 ただし、『第三世代の人権』については、「あくまで国家の政策目標あるいは政
治的主張であって法的権利ではないとするもの」「本来人権は個人の権利である
とするもの」「司法制度等の人権の保障制度が欠けているとするもの」などを根拠
に、これを「人権」として認めることについて、異論も唱えられている 61」
「日本国憲法は、その前文において「いずれの国家も、自国のことのみに専
念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的な
ものであって、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等な
関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」と謳い、国際協調主義の立
場を打ち出している。この立場は、98 条 2 項において「日本国が締結した条
約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守する」と具体化されている。
一般的にこの具体化は、国際法・国際人権条約を日本の国内法秩序にそのま
ま導き入れることを意味する「一般的受容」を示すものであると理解されて
いる。」
国際人権規約の目指す人権保障の強化は、基本的に日本国憲法の人権保障
と歩調を合わせるものであり、両者は全体としてほぼ重なり合って重層的に
人権を保障している。ただし、人権保障の範囲・程度に相違がある場合には
両者の調整が問題となる。国際人権規約は、日本国憲法と比べると、国際社
会の変化や人間の尊厳・差別防止の国際的理解の進展等を反映して、例えば、
人民の自決権(社会権規約 1条及び自由権規約 1条)、内外人平等の原則と国
籍による差別の禁止(社会権規約 2条及び自由権規約 2条)、抑留拘禁の適法
性に関する裁判の保障(自由権規約 9 条 4 項)、プライバシーの尊重(同 17
条)、戦争の宣伝・差別煽動的な人種憎悪の唱道禁止(同 20条)、少数民族の
文化的権利(同 27条)など、日本国憲法には明示的に定められていない権利
を規定している。 
 国際人権規約が日本国憲法よりも人権を広く認めている場合、例えば、社
会権規約9条の社会保障に関する内外人平等の原則や自由権規約24条3項の
国籍を取得する権利の保障は、日本での人権保障を拡充する機能を果たす。
これに対して、国際人権規約が日本国憲法の人権保障を限定している場合
例えば、自由権規約 20条の戦争宣伝禁止、差別唱道の禁止の要求は日本国憲
法 21条の表現の自由を限定する意味を有するが、このような場合、両者の調
和的解釈が望まれつつも、いずれを優先させて解釈すべきかという困難な問
題が生じる 63。 
一般的には国際法優位説の立場に立てば、国際人権規約等の国際条約に
おいて明文で規定されている人権で日本国憲法上は明白には根拠のないもの
でも、憲法を超えて当該国際条約に基づき人権の救済を図るべきとの主張が
導かれるが、条約は憲法に劣位する(=憲法優位)と解せば、いわゆる自動
執行条約でない限り、条約を実施するための国内法的措置が講じられなけれ
ば、条約の国内法としての効力は発生しないということになる 64。 
 ただし、条約が自動執行的か否かは特定の条約全体について一般的に論ず
るべきではなく、個々の規定について具体的に検討すべきである。すなわち、
国際人権規約(特に自由権規約)の規定の中には、自動執行的な性質をもつ
ものも少なくないと考えれば、国際人権規約の規定が、日本国憲法が保障し
ている人権をより徹底的に保障している場合や、日本国憲法が明文で保障し
ているとは解されない人権を保障している場合には、国際人権規約の当該規
定の規範内容が明確性に欠けるところがなく、それ故裁判所によってその規
定違反の可否について判断されうる限りにおいて、公権力による具体的措置
を国際人権規約違反のものとして解釈することは許容されうるとする見解が
有力である。しかし、この場合でも、日本国憲法の人権保障規定の解釈から
すると認められないような人権制限を要請している国際人権規約中の規定を
日本国憲法下において適用することの可否という問題は依然として残る。

「公共の福祉(特に、表現の自由や学問 の自由との調整)」に関する基礎的資料  http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi046.pdf/$File/shukenshi046.pdf
法律の留保.一元的内在制約説「①公共の福祉とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である。②この意味での公共の福祉は、憲法規定にかかわらずすべての人権に論理必然的に内在している。③この原理は、自由権を各人に公平に保障するための制約を根拠づける場合には、必要最小限度の規制のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保障するために自由権の規制を根拠づける場合には、必要な限度の規制を認めるもの(社会国家的公共の福祉)としてはたらく。」.比較衡量論.二重の基準論.経済的事由<精神的自由.
公共の福祉による人権の制限の例
・表現の自由の制限→私生活の暴露(プライバシーの侵害)、他人の名誉を傷つける行為(名誉毀損)、不当な選挙文書の禁止(公職選挙法)
・集会・結社の制限→デモの規制(公安条例)、破壊活動を行った団体の処罰(破壊活動防止法)
・居住・移転の制限→伝染病患者の隔離(伝染病予防法)、破産者に対する居住制限(破産法)
・私有財産の制限→建築制限(建築基準法)、土地利用の制限(都市計画法)
・経済活動の制限→社会的経済的弱者に生活を保障するため強者の経済活動を制限(独占
禁止法)、国家資格や認可・登録がないと、営業・製造・販売ができない(医師、毒物劇物取扱い業者)
「新しい人権」への歯止めと調整は・・・
・自由秩序と知識 放送大学卒業研究 http://u-air.net/social-science/theses/fujiwara.pdf
ハイエク「自由の条件」
・我が国が未批准の条約 http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2009/200887.pdf
「私法統一国際会議(UNIDROIT)」
・この地上に存在する憲法に書かれたすべての人権を1枚にまとめた表 http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-693.html
・あたらしい憲法のはなし http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html
・些細な一時的な安全を得るために,本質的な自由を棄てるものは,自由も安全も得ることができない。(ベンジャミン・フランクリン)
・配布資料2 裁判員裁判の実施状況等について(要約)【PDF】http://www.moj.go.jp/content/000109142.pdf
http://www.moj.go.jp/content/000109144.pdf

・検証 イレッサ訴訟とは何だったのか
http://www.cabrain.net/news/article/newsId/39630/page/4.html
・〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第242回
タイム誌史上最長記事に見る米国医療事情(1)
李 啓充 医師/作家(在ボストン)
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03021_07
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA03023_05
http://izuhara.web.fc2.com/sub3-torinokensaku/sub-
・torinokensakuhyo.index.html#suzume
http://www.birdfan.net/gallery/library/sanya_mijika.html#01
・エンデ.自由=精神・文化.平等=法律・政治.友愛=経済

・@endBooks 藤田弘夫”中国では法は「礼」のように高い地位を与えられなかった。法を自分たちの味方であると考えるどころか、民衆は法や裁判官を軽蔑の対象とすらしたのである。文人の中には法律を読まないことを誇りとしている者すらいる。” http://j.mp/KImSua  『東アジアの死刑』
・Onuma,Y., "A Transcivilizational Perspective on International Law: Questioning Prevalent Cognitive Frameworks in the Emerging Multi-polar and Multi-civilizational World of the Twenty-First Century", Recueil des cours, Vol.342, 2009, pp.77-418. http://nijhoffonline.nl/book?id=er342_er342_077-418
・シビル・ローとコモン・ローの 混交から融合へ 2 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=52531
・England Your England 1941 George Orwell http://www.telelib.com/authors/O/OrwellGeorge/essay/England/england.html 「I don’t want to join the bloody Army, I don’t want to go unto the war; I want no more to roam, I’d rather stay at home, Living on the earnings of a whore. But it was not in that spirit that they fought.」
・「法や契約という近代の概念が信じられず、全ては狭い世界の政治、つまり個人の自尊心を削り合う心理ゲームに収斂してしまうというこのドラマは、」ドラマ『半沢直樹』は、あくまでファンタジーhttp://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/08/post-579.php … @Newsweek_JAPAN

・1.慣習,道徳
2.法の形成(慣習と道徳の内一般化できる最低限)
3.法により派生する,慣習と道徳
4.3の最低限を法に加える
・・・
5.社会文化の形成
・・・
0.司法による法の微調整.一般化できない部分,最低限でない部分(判例の強度,道徳の適用,感情の適用).憲法による外縁制限.

・司法権をめぐる論点 http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2004/200401.pdf
・「英米法」対「大陸法」 http://www.nomolog.nagoya-u.ac.jp/~t-ohya/_userdata/idea10.pdf
・自己決定権は,裁判官の恣意を生むのか http://www.law.nagoya-u.ac.jp/ls/review/_userdata/11-04.pdf
・司法制度改革審議会意見書2001http://www.veritas-law.jp/ronbun_doc/20091011154016_1.pdf
・元最高裁判所判事に聞くhttps://www.lawlibrary.jp/judical2.html
・失われた日本のコモンロー http://agora-web.jp/archives/1459733.html
・22カ国/地域契約意識調査基本報告書 https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=6&cad=rja&sqi=2&ved=0CEgQFjAF&url=http%3A%2F%2Fir.nul.nagoya-u.ac.jp%2Fjspui%2Fbitstream%2F2237%2F7442%2F1%2FHH196_115.pdf&ei=ZSsDUo7GOIrFkwXDhoFo&usg=AFQjCNF2x9Dl-X5EKx8CbbQ9TlDKYA7ZgA&sig2=A__HxtlNGd-uXA0NDnoxsQ&bvm=bv.50500085,d.dGI
・Article 10 of the European Convention on Human Rights「2.The exercise of these freedoms, since it carries with it duties and responsibilities, may be subject to such formalities, conditions, restrictions or penalties as are prescribed by law and are necessary in a democratic society, in the interests of national security, territorial integrity or public safety, for the prevention of disorder or crime, for the protection of health or morals, for the protection of the reputation or rights of others, for preventing the disclosure of information received in confidence, or for maintaining the authority and impartiality of the judiciary.」


・日本では多くの場合,自由は「自分勝手」という意味に解釈され,「自由と責任は不可分でありそれこそが自由」であることが理解されていない気がする.理解した上で自由を犠牲にして組織化を選択するのであればそれも良いが,理解せず自由と組織化双方を持っていると思い込んでいるのではないか?

・基本:自由には責任が伴う.
・例外:基本的人権は天賦であり奪われない.そのため基本的人権行使時は責任・義務の付加は制限される.(e.g.生存する権利を行使する際に,対価を提出する責任・義務はない.)
・例外の拡大解釈により,すべての人権に全く責任が伴わないという風潮.
・人権の範囲拡大という傾向.
・すべての人権に全く責任が伴わないという風潮の拡大.
・責任感のさらなる希薄化.
・自由,権利衝突時の調停という概念の薄さが問題.
・法が自由,権利衝突時の調停を果たすという理解の薄さが問題.
・裁判員制度への期待.
・・・同じ結論か.


自立できない個人を許容し,組織化を維持できる,日本文化に適合した法とはどういうものであろうか?
→大陸法を英米法よりに.そのための司法の役割の強化,判例の強化.司法監視手段としての市民参加の司法?.法の安定性と国際調整はどうしようか・・・

・2002年の司法改革の目的はこれだったのかも.追加調査必要.
・仮説に間違いがありそう.江戸時代の統治は衡平であったゆえに私権の感覚が生まれなかったとみなしたほうがよいかもしれない.とするとポイントはまた,民法典論争か・・・


仮定見直し
・日本では,歴史的に政治が優秀であったため私法概念が生まれず,政府依存の考え方,責任依存の考え方が発達した.外部から大陸法導入するも政府から与えられた法であった.個人は法乖離,法依存,善良な法による支配,実質擬似法の支配.
・中国では,歴史的に政治が貧弱で汚職まみれであったため私法概念が生まれ,自立社会が発達した.しかし政府が強力でその私法を法に昇華できなかった.個人は法敵対,法無視,法による支配,法治.
・欧州では,歴史的に政治が貧弱であったため私法概念が生まれ,自立社会が発達した.複数の事件により私法を法に昇華できた.個人は法所有,法の支配,実質擬似法治.
・基本的人権の概念から,国際的に個人は人権を主張するようになった.しかし「すべての」人権が属地適合しているとは限らない
ふむ,


English Common Law: Structure and Principles  https://class.coursera.org/engcomlaw-001/wiki/view?page=introduction
・飛田茂雄 『英米法律情報辞典』 研究社 2002.(欧州人権条約,1998年人権法(UK),)
(少し前まで,英国では立法機関の一部である貴族院が司法の最高機関でもあったんだな.それなら判例法による立法に根拠があるといえるわけだ.現状の英国は成文化を進めており,司法の立法権限を制限しているが・・・.米には憲法があるから判例法といえど司法に制限は最初からかかっている.双方とも陪審参加により司法の権限を制限している.
・・・法解釈の権限をどうみなすか.日本では,最高裁判決は憲法の範囲内という制限はあるが,実質的に立法とほぼ同じ権限を持つ(立法は最高裁判決通りの法改正をしやすいし(国会は唯一の立法府で最高裁は違憲判断をするだけでどうすべきということはない(しても効力はない)ので,必ずしもそうする必要はない),下級審は最高裁判決の傍証を利用した法解釈を行い判決を下す.).これを高裁まで落とすとどうなるか・・・.)

・「憲法と国際法(特に、人権の国際的保障)」 に関する基礎的資料 2004 
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi050.pdf/$file/shukenshi050.pdf 
・参議院憲法調査会憲法調査会報告書等発言要約一覧(2005) http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/houkokusyo/hatugen/03_10_03_01.html
「内閣法制局の憲法解釈をどう採用するかは政治の問題であり、採用しないならば、それだけの理論武装等で対応すればよい」「違憲審査権は、三権分立制度との関係では、司法が立法又は行政の権限行使をチェックする役割を果たす」「最高裁が憲法裁判に消極的な態度をとっていることに憲法学者がほぼ共通して不満に思っている」「違憲判決が少ない理由の一つに、政府立法に対し、内閣法制局の憲法審査を含む精緻な審査が行われていることがある」「内閣法制局はあくまで行政機関であり、その判断が最終的な憲法判断になるのではなく、最高裁が判断すべき」「日本では法案の段階で完璧性を求めるが、法案の入口の段階で決めてしまうことは問題で、最終的には最高裁が判断するという仕組みの徹底が必要」「初期の判例に対し学説は、公共の福祉を用いて基本的人権を制限できるのは22条1項と29条2項の経済的自由のみであり、12条、13条を根拠に公共の福祉を用いて人権を制限することはできないと批判(内在的制約説)」「その後、判例は、多義的で内容を特定し難い公共の福祉という概念により人権を制限するのは不適当との考え方に転換し、基本的人権を制限する場合は、人権制約立法の違憲審査基準という形で問題を処理するようになり、比較衡量論の手法を採用」「比較衡量論には人権を制限する側にバイアスが掛かった判断がなされる特徴があり、学説は、違憲審査基準を精緻化し、精神的自由と経済的自由とで異なる基準を適用するという二重の基準論を展開し、最高裁も採用」「今日では、すべての人権が公共の福祉を理由に制約可能であることを前提に個別の人権ごとに比較衡量論や二重の基準論等の人権制限基準により、個別的、具体的に制約の合憲性を判断するのが判例、通説」「二重の基準論は、米国判例で展開してきた議論で、精神活動にかかわる人権を制限する法律については厳格な違憲審査基準を、それ以外の権利については緩やかな審査基準を適用するという議論。日本では、経済的自由について緩やかな審査基準を適用する議論として展開し、学説は支持し、判例も支持する言い方をしている」
http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/houkokusyo/hatugen/01_10_02.html
「裁判官が民主的基盤を欠くことが統治行為論などにつながっており、最高裁長官・判事のみならず、裁判官の任命自体についても国会を関与させていくべき」
・統治行為論  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A1%8C%E7%82%BA%E8%AB%96
「国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論」



・衡平と平等
・機会の平等と,結果の平等(実質的公平)の明確な違い.(資本主義性,社会主義性))
・機会の平等による結果を,自由や人権などの原則に従い「最低限」救済するための社会保障.最低限外には格差の合理性.
・最低限の閾値.
→生存権という原則が脅かされることからの救済としての条約.自由との衝突.最低限とみなせる閾値はどこか.基準は世論で決まるべき.世論は世界の世論か,国内の世論か.条約は国内法制定の基準を示している.基準は国内の世論で決まるべき.


・「 Regulations and education could certainly help in some instances. However, if one needs an army of lawyers to understand the basic precepts of the law, then it is time for a new law.」http://www.law.columbia.edu/null/download?&exclusive=filemgr.download&file_id=612486
うむう

・1900年代前半~中盤の文学を色々読み返している.どの作者も自由と人について確たる主張?(でいいかな?)があるように思える.まあその時代がそうであったというわけでなく,そんな文学だけが生き残っているのだろうが.


 国際:基本的人権.条約など
    ↕標準化の必要性.条約と憲法の比較調整.
 社会:法(最小限)⇔組織化:慣習,倫理,合理性,協調
    ↓社会の維持,社会的権利の保証.司法.行政.
    ↑自由の制限・束縛の許可(人権等制限束縛が許可されない事項の存在)(公共の福祉>公序良俗).もしくは具体的に規定された限られた自由の許可.司法.立法.
 個人A:自由・責任.(グループとしての協調.チームとしての自立した協調)
    ↕衝突の調整:自由契約,法,組織化
          ローマ継受法は法による調整重視 英米法は契約重視
         (機会平等か結果平等か)
    ↕尊敬関係
 個人B:自由・責任.(グループとしての協調.チームとしての自立した協調)

過去
現状
未来への提言


民主制は,国民の多数意見は正しい道を示す傾向にある,と前提しているのでは無く,国民は不十分の認識しかできないという事実を認めた上で,その上で「間違った道であろうと」国民に自分たち自身の進む道を決めさせよう,という制度.
民主制は,そもそも,「正しい道」を選択させる方法ではない.人間の自由と権利を前提とした個人に道を選択させようという制度.
(人間の脳は証拠に基づく論理を形成しないようにできている.データ不足でもそれを認めず判断してしまうなど,バイアスを受けるようにできている.
人間は,論理的思考の訓練を受けないと,バイアスの制限ができず,選択の自由を正しい道に方向づけることができない.直接民主制が成功した試しがないのはこのためだろうと思っている.自由行使に伴い派生する「責任」は,選択の「自由」を「正しい道」に「方向づける」一強制力,と思っている
・蝕まれ出した愛情に限って、ことさらわざとらしい儀礼を見せはじめるのだ。 (Shakespeare)
(三人寄れば纏まらない,というのは感情.三人寄れば文殊の知恵,というのは論理充足?)
(個人的事件であれば感情をもとに判断して良いだろうが,第三者効が必要であれば論理をもとにしなければ客観性不十分により認められない.第三者効の必要性により生まれたシステムが法.)
組織化の考え方は,民主制と完全には合致しない.そこで社会的な制限を強く認める社会民主制の考えが生まれた.
日本は,社会民主制→民主制への移行の希望→社会性をより強めた民主制への移行,という道をたどりつつあるようだ.
欧米は,完全に近い民主制から,喧嘩しつつ社会民主制へ移行しつつある.


・法は,自由を生贄にするが合意による.
組織化は,自由を生贄にするが合意によるとはいえない.
組織化では,合意していない事項に対し自由を主張すると批判される.組織化は人が持つ当然の自由を合理的理由なく阻害する.空気.
日本では?,ネット上での判決批判は,法と論理性を根拠とせず,組織化を根拠として行われる事が多いように思われる.
・個人間の尊敬と,組織化は両立できるのかな?

社会が一番広い概念.その中に法がある.社会の範囲から法の範囲を除いた部分が,組織化が受け持つべき範囲.
法の範囲と組織化の範囲の重複範囲:自力救済禁止より,法が優先される?
組織化の範囲:組織化の利点と欠点を許容するしか
人権の範囲と組織化の範囲の重複範囲:天賦を認めるなら人権優先だが,実質組織化優先とされやすい.
こんなとこか?


・イナゴたちは協調性によってではなく共食いによって隊列をつくるのだ。 http://wired.jp/2013/12/28/as-one-vol8/
「このような行動はよく「たくさんの間違いの原理」によって説明される。1964年に発表されたこの説によれば、どこに行くべきかを1匹1匹の魚が不完全に判断し、その微妙に間違った数多くの判断が、群れの中で相互作用と集団化によって平均化され、最適な方向が決定されるという。ジャーナリストのジェームズ・スロウィッキーは『「みんなの意見」は案外正しい』という本のなかでこの概念を「集団の知恵」として紹介し、一般にも知られるようになった。
だがカズンの観察では、この説はゴールデンシャイナーには当てはまらないことがわかった。群れは不完全な判断を出し合ったりしていない。どこが暗いかを1匹1匹が判断しているわけではないのだ。魚たちはある単純な規則に従っているにすぎない。それは、暗い所ではゆっくり泳ぐ、ということだ。ばらばらの魚たちのグループが暗がりに行き当たると、端にいる魚が速度を落とし、グループ全体が暗がりの中に入る。全体に光が当たらなくなると、まるで高速道路で渋滞する自動車のように全体の動きが鈍くなって密集する。「これはまさに創発特性と言われるものです。群れのレヴェルになって初めてこの知覚能力が発動するのです」。つまり、1匹1匹のゴールデンシャイナーは何の意図ももたず、群れに全体を修正する知恵などない、ということだ。」


日本では,歴史的に上が優秀であり,下はその優秀さを尊重し依存していた.からこそ,全体主義でも比較的うまく社会が働いてきた.
上が非難されることが多いが,無能なのは多くが下だ.
現在の多くの社会的問題について,
上が無能になったことが問題発生の原因というよりも,下が「自分たちが無能だ」という認識を失ったことが問題発生の原因と考えている.
啓蒙が啓蒙となっていない.無知の知を失わせる教育.
「そんなこと教わっていないから知らない」などと人間失格といえる発言をする,教育の自由を行使した結果の自分の責任を理解していない問題.
専門家責任を重くしすぎたため,強者である上への責任転化を規定しすぎたため,下は自分たちに原則的に責任があるという認識,自分たちが無能だという認識を失った?.
「自分たちが無能だ」という認識を失ったなら,全体主義はうまく働かなくなる.全体主義であったこれまでの社会を,無能を許容できる人権ベースに移行させなければならない.
切り替えか・・・・










・裁判官は「日本」を滅ぼす http://www.kadotaryusho.com/blog/2013/09/post_724.html
プラクティス
(追記が増えすぎた.後日まとめ直す)

老人徘徊事件について.
まず民事と刑事を分けて考えていないように感じる.
民事では,個人間の権利の折衷を行う.その際に,基本的には,相手の(同情すべき)「事情」を問題とする訳にはいかない.損害を受けた者は,相手の事情により賠償額が削減されるとされる謂れがないからだ.民事は社会との折衷ではない.
刑事では,基本的に個人と社会の折衷を行う.個人の事情は考慮されており,感情さえも考慮されている.
民事において,事情は基本的に考慮されないが,必要に応じ,考慮されうる.ただし,すべての事情が考慮されるわけではない.考慮される事情は,「社会的に合意があるとされ法に定められているもの」,「当事者が主張するもの」でありかつ「当事者間で合意されうるもの」.過失の有無,予見可能性,個人差に帰される事項など.
民事,損害賠償において,「事情」のうち,過失,予測可能性は考慮される.
民事は弁論主義,当事者主義をとる.
・弁論主義 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%AB%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9#.E5.BC.81.E8.AB.96.E4.B8.BB.E7.BE.A9
「職権探知主義の対義語。通説によると、資料(事実と証拠)の収集・提出を当事者の権限および責任とする建前のこととされ~」「その事実を当事者が主張しなければ、判断の基礎とすることはできない」「その事実について、当事者間に争いがない事実はそのまま判断の基礎としなければならない」「職権証拠調べの禁止 事実認定の基礎となる証拠は、当事者が申し出たものに限定される」
過失が認められたということは,片方の当事者が十分な「不適切性」証明をでき,片方の当事者が十分な反論ができなかった,ということであり,これは個人間の権利の折衷に帰すものといえる.事実と当事者の立証能力の問題であり,特別な事情がない限り,裁判官による寄与率は低い.(裁判所が適切性を職権判断することは限られている.基本的に,当事者の主張の不適切性を判断する.)
問題の老人徘徊事件は民事であり,基本的に相手の事情を考慮しない.過失については,その立証責任は原告側にあり,被告側は有利であったはずである.それなのに過失認定で負けたのは,事実に被告不利な内容があったか,被告の立証が弱かったのだろう.
過失要件が厳しすぎる,という主張はできえただろう.その主張がなされたかどうかは判例を読んでいないので分からない.(主張したのであれば最高裁にかかっていると思われる.最高裁にかかっていないようなので,多分主張されなかったのだろう.)
老人徘徊事件が刑事であれば,相手の事情を考慮することになっただろう.そしてその際の裁判官の判断が異常であれば非難は当然だろう.(それを改善するために,刑事には裁判員制度が採用された.)
刑事では裁判官を非難する理由があるが,民事では裁判官を非難する理由は,通常ない.
民事と認定した上で,事情のうち,過失認定に問題がある,という主張であろうか.裁判官に過失認定の全責任があるとは思わないが,それを別とすれば,意見自体は理解できる.
著者の主張する「事情」の考慮とは,「裁判官が事情を考慮すべき事案であるのにそうしない風潮がある」という一般化できる公憤であろうか,「自己の裁判において自己の言い分という意味の事情を採用しない」という一般化できない私憤であろうか.

文章全体について.
法に頼り,法を根拠として「全て」を解決しよう,とする考え方をしているように読める.
もしそうであれば,問題であろう.
法は,そもそも社会の共通認識・合意の最低限となるべきものである.
法において,個人の事情を,他の個人や社会を無視して無条件に大きく考慮するのは,そもそも矛盾を生じる.
法においてカバーしていない,最低限と言えない個別の事情に関しては,まず社会がそれをカバーすべきであろう.
老人徘徊事件については,社会がそれを必要と認めるのであれば,社会が,介護に対する援助をすれば良い.
そして社会の共通認識と合意ができたのであれば,それを法とすれば良い.
これは法が役に立たないという意味ではなく,当然の手順である.法を作るのは,根本的には,自分たち自身である.まず,自らの発意が必要である.
法がカバーしないという結果に対してなにかを批判するのであれば,まず法を批判するのでなく,それを法にできない,社会でカバーできない,自らを先に批判すべきだろう.
(以上は民事に関する事項.刑事ではそも法に社会との折衷がふくまれるため,原則として以上してはいけない.私刑は禁止されている.
刑法は,社会正義のうち合意のある罪について,個人の自由を制限し罰を与えることが許容されるむねを定めたもの.刑法に規定のない罪は,社会合意のある罰して当然なもの,とはできない.
とはいえ,閾値は微妙であり,合意はあっても法で定められていないこともある.
法で漏れている社会正義の実施のために,組織化により罰が与えられることがある.私刑やいじめなどがそれにあたる.)
(民事:個人-個人.社会による補佐.
刑事:個人-社会.社会による補佐は禁止されるが,実質的には存在.)

(自力救済の禁止は法の範囲内に限る?.自力救済の禁止は法治の前提と思われるが賛否は?
・自力救済 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E6%95%91%E6%B8%88 
「これを規定した条文はないが、現代の民事法では例外を除き禁止されている。」「こうした自力救済を容認すると、力が正義ということになり、実力行使を請け負う私的機関がはびこって社会秩序の維持が難しくなるためである。近代化にともない、権利のあるなしの判断や執行は裁判所によってなされるべきとされ、私人の介入を排した。」「司法制度が不十分な近代以前には、侵害された権利を回復するために実力に訴えざるをえなかった(たとえば、古ゲルマン法のフェーデ)。しかし自力救済は裁判所による煩雑な手続きよりも迅速に問題を解決させることができる側面も有している。そこで現代の法にあっては、例外規定を設けつつ自力救済を禁止する傾向が一般的である。その例外の広さはまちまちで、コモン・ロー系[1]の民事法では自力救済の制限は緩やかで、国際法上は厳しく運用される。」「日本法の歴史では、古代から自力救済が行われていたと考えられ、律令制において裁判制度が整備された後も~」
議論見つからず今ひとつ
自力救済禁止の原則は,英米法大陸法問わず,世界的な前提として良いのか?.
・中国民事執行制度の意義と課題(1)――日本法との比較考察―― http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-1/zhangyue.pdf 「中国における強制執行についての立法は,唐時代からすでに存在していたが,清時代までに,自力救済から公力救済へ,また人的執行から物的執行への転換をおおむね実現している」
・古典期アテーナイにおける所有権法の若干の問題 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/1864/1/ronso0720400150.pdf
・10.南北朝の動乱から自力救済の世界へ―中世(2) http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsi1a/0619.pdf
・フェーデ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87 「中世では自己の権利を侵害された者はジッペや友人の助力を得て、侵害した者に対して自ら措置を講ずることができた。これは原始的な血族単位での報復である血讐を中世法に適合的なように改めたもので、中世法では身代金を積むことでフェーデによる暴力を避けることができた。」
決闘か.近世まで決闘はあちこちに残っていた.リンカーンの決闘,決闘権など有名やし.法と決闘は並行して存在したはずだがどこで自力救済原則禁止となったのか?.世界的に自力救済原則禁止となるには何かがあったはずだと思うが.
・決闘 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E9%97%98 「決闘裁判」「主に、通常の裁判などでは自らの正しさが証明できないときに使われた。」うん,並行している.「江戸時代の決闘は領主の警察権の対象であり、果し合いは領域を統治する大名勢力から見れば自領内で起こった乱闘・殺人事件であり刑事罰の対象とされた。」
うーん,自力救済の禁止は,自然な到達点と考えてよいのか?


法の管轄外についても法に依存しようとする考え方は,
組織化をもとに法を考え,法を自分たちの責任と考えない,個人の自立と自由を把握していない甘えた考え方のように思われる.
法と組織化を区別できない,法の所有感覚がない,ということが問題か?

他面再考.
要件事実の認定自体を批判しているようである?.
要件(事実)認定は演繹的手法の一部である.演繹手法は,同じ原因に対し,毎回同じ結論を出すことができる.大陸法では法判断に演繹が用いられている.大陸法において演繹が用いられているのは,判断者により結果が変わることが無いようにするため,法の安定性を高めるためである.(名奉行の存在が前提となる法判断を認めない考え方,判断者の質を問わない考え方)
要件認定は,大陸法の根幹,パンデクテンに関わる事項であり,変更できることではない.いわんや,(少なくとも現時点では)裁判官が裁量により変更できることではない.

著者はそれを言っていない,と仮定し考えると,
著者の主張は,柔軟な,英米法的手法,とりわけアメリカのような民事でも陪審制を採用している制度,「その時の」人間判断重視,お白洲のような主観的独裁的同情的柔軟な判断,エクイティ的判断,独裁人治,徳治,カントロヴィッツやエールリッヒの思想の実現,を求める主張,ではないかと思われる.
「自分の主張は自分で立証しよう」という制度から,「自分で主張はするが立証は他人任せにしよう」という制度へ切り替えろ,という考えならば,依存的,自己中心的,甘えた考え方に思えるが,それは置いといて,
日本は大陸法を採用している以上,英米法的判断をすることはできない.
日本法は戦後英米法の影響を受けており,近年,刑事,国際商法と民法債権の内容は英米法寄りにシフトしているが,判断は大陸法のままである.
英米法的判断ができたとしても,英米法の民事も当事者主義をとるし,エクイティは衡平を求めるものであって当事者間に同情的差をつけるものではないし,裁判官の権限は憲法の範囲を超えないし,陪審は民事では事実認定だけを受け持ち判決には関わらないし,裁判官の裁量権は制限される方向にあるので,要件認定したときと同じような結論となるだろう.そも,英米法でも,強度こそ異なれ,要件認定をおこなう.

・(法思想史 II (法哲学基礎研究 III)) 
http://www.nomolog.nagoya-u.ac.jp/~t-ohya/_userdata/idea10.pdf
・失われた日本のコモンロー 
http://agora-web.jp/archives/1459733.html
・シビルローとコモンローの混交から融合へ 法改革のためのグローバルモデルは成立可能か1 
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=44316
・シビルローとコモンローの混交から融合へ 法改革のためのグローバルモデルは成立可能か2 
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=52531
・ Transcivilizational Perspective on International Law: Questioning Prevalent Cognitive Frameworks in the Emerging Multi-Polar and Multi-Civilizational World of the Twenty-First Century 
http://nijhoffonline.nl/book?id=er342_er342_077-418
・英米法における新たな法典化運動の展開 http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/8078/1/ykh20-3-4.pdf
・「法と開発」への法科大学院の取組み http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=14550 
・主要国の議会制度 http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2010/200901b.pdf
・シリーズ憲法の論点1 司法権を巡る論点2004.9  
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2004/200401.pdf
・司法制度改革:21世紀の司法制度を考える 
http://www.courts.go.jp/about/kaikaku_sihou_21/index.html
・・戦後の司法制度改革の動向 http://www.courts.go.jp/about/siryou/img_04/index.html
・憲法第31条「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」
・フランス法の現状を考える
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=64893
・知的財産分野における日本と欧州の統一された裁判管轄制度に向けて 
http://www.iip.or.jp/summary/pdf/detail09j/21_10.pdf
・法の姿を索めて - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=57528
・ルチュウス・ビルトハーバー 様々な角度からみた欧州人権裁判所 
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/09-1/nisimotodeguti.pdf
・EUの基本権保護 
http://eu-info.jp/law/top-fr.html

英米法の国では,法文化運動に伴い,「司法による立法」を制限しようという論議がされている.
英米法でも,判例から抽出した要件にもとづき,判断され,判例の選択は法典に縛られる.
結局,英米法の国でも,大陸法の国でも,司法による立法を制限し,三権分立を進めようという流れが主流である.要件認定は共通する事項となり,解釈の幅も同じようになってきている.

裁判官が「法の要件を超えて」裁量で判断しないのが悪い,などという主張?
そも,司法は具体的事件に法令を適用して紛争を解決する作用であるので問題外であるが,それを置いておいて考えてみる.
裁判官が「法の要件を超えて」裁量で判断しないのが悪いという主張は,国際的な流れに逆らう.
法は共通認識を原点とするので,時流に乗っているかどうかは非常に重要な問題である.
もちろん属地性反論は可能.だが,日本にも「裁判官に「法の要件を超える」裁量をあたえる」必要性と流れは,いまのところ存在していない.
裁判官に法を超えた裁量を持たせることは,現在では世界的に否定される考え方である.そして,裁量をもたせ過ぎたことによる問題から,裁量を制限してきたという世の流れがある.
もしこれを覆すべきという主張であるなら大事である.もっと利点と欠点を整理し,説得力のある主張をすべきだろう.
(他項に述べている自分の主張は,裁判官の裁量に日本版エクイティを付け加えること,であるが,これは法の範囲内での解釈に対する裁量の追加のことである.また,要件認定を否定していないし,現時点での裁判官を否定するものでは全くない.法組織化の統一のための一案であり,民間と司法の感覚をより近づけることを目的とする意見である.・・・とはいえ,基本的には近いのか?)

人権問題とできるなら,法を覆しうる可能性がある.
人権は憲法より前に存在するとできうるからである.たとえば,欧州人権裁判所は,実質的に欧州各国憲法を超えた存在となっており,欧州各国の社会文化を根拠とした人権への考え方を修正し,本質的な人権を設定している.
人権を天賦とみなすならば,欧州人権裁判所の考え方を日本でも流用可能である.

民事を当事者主義から職権主義へ変更するように求める主張であれば一考の価値があるだろう.
裁判官に職権を与え,より当事者間の衡平を求める方法だ.職権の一部として裁判員を参加させるのも良いだろう.
しかし,職権とは,「法の要件の範囲内」の裁量である.

事実審と法律審を分けて考えていないようにも思える.
要件とは,法の本体そのものであり,共通認識そのものである.これを否定することは,その法の内容自体を否定することに等しい.
そして,法の内容,要件を否定するシステムはある.
事実審では,事実を法律に基づく要件にあてはめ判断をおこなう.要件に不備があると思うのであれば,法律審にかけることができる.
事実審において,要件を批判することは間違い.
法に不満があれば法律審に上訴すれば良い.法律審である最高裁は,憲法に基づき,要件が妥当か事情まで考慮して判断する.
要件に文句をつけるシステムはきちんとある.
要件に問題があるとする場合,批判すべきは立法,または司法のうち法律審であり,事実審ではない.
そして,法律審にかけても不満が残るようであれば,社会を味方につけ,立法を動かせば良い.
英米法では,基本的に,判例のうち合意があり将来的に改変が少ないと思われうものが,法文(法典)化される.法文化されたものを覆すのは法律審の役割であることは大陸法と同じである.
(英米法の国では,下級審から法律審となる傾向がある,という違いはある)
・・・
著者の言う「要件事実」(の認定)とは,「法の解釈」による事実認定のことであろうか.であれば,主張自体は理解できる.
法文:「AがBをしたとき,Cとする.」
法の要件:A,B,C
法の解釈:1,2,3を満たすときにBであると解釈する:判例,学説と裁判官の裁量.
裁判官の解釈について批判しているのかな?.
この解釈については,常に議論され,研究されている.裁判官は,これを参照する.
一般に,地裁では判例と学説通りの解釈がなされることが多い,高裁では裁判官の裁量で解釈される可能性が少し増える,という印象を持っている.刑事に限定すれば,裁判員も解釈を否定できうる.
大陸法では,「法の解釈」は「法文」の範囲内でなされることである.英米法では,「憲法または憲法典」,実質的には法典,の範囲内でなされることになっている.(準拠法あさりにより国際法に法源を求めることもできる,が,それも「法」の範囲内ということは変わりない.)
裁判官に,「法文の範囲内」の,「より強い」「解釈裁量」を与えるべき,という意見であるならば,その旨は賛成である.(裁量は認められているが,実際に裁量を実施してしない,ことの改善,という意味)

換言.
英米法は,柔軟性を維持しつつ,法の安定性を高めるため,大陸法よりの法典化を進めている.
大陸法は,法の安定性を維持しつつ,柔軟性を得るため,委員会の強化など,時代にあった迅速な法改正ができるよう,立法を工夫している.
大陸法にさらに高い柔軟性を与えるために,司法の法解釈の裁量をより積極的に活用させる,そのために英米法的判断(例えば日本版エクイティ)制度を採用するとよいのではないか,という意見であれば賛成である.(最近の知財高裁判決見る限り,すでに法解釈の裁量を積極的に活用しているようだが)

裁判官が要件事実のみで判断し「事情」を考慮しないことが悪い,と主張しているようである.
要件認定自体に問題はない.つぎに事情を考慮するとはどういうことか考えてみる.
民事において裁判官は,それが要件でない限り,「事情」を考慮しない.その理由がある.陪審はどうか.
アメリカでは民事においても,当事者は陪審裁判を請求できる.民事において,陪審は,事実認定を行い,有罪無罪を決定しする(賠償金額認定も行う).その後,裁判官は,法に基づき必要に応じ陪審決定を否定し,賠償金額を決定する.
アメリカでは,民事の陪審裁判は,ほとんど行われていない.
イギリスでは,民事の陪審裁判は,ほとんど行われていない.行われなくなる事情があった.
陪審裁判では,陪審は,法の範囲内で判断を行うべきとされるが,超えることもできうるとされる.
つまり,いわゆる「事情」を考慮して,法を超えた判断を,陪審はできうる.
しかし実際は,それはほぼ許されないし,許されるとしても,その法は,判例法や解釈であり,法典や法文ではない.
実質的には,陪審は,(事情を考慮して)「解釈の変更」が許されることがある,といえる.
判例もろくに無い法の支配も未確定な時代であれば,陪審による実質的に法を超えた判断が許されなされたかもしれないが,現在はすでにそうではない.
現在では,陪審の権限を強めるほど,民主制からも法の支配からも法治からもかけ離れてゆく結果となる.法を前提とするならば,多様化した世界において,陪審の権限を強めすぎることはできない.
法は立法過程を経て,多人数の最低限の合意として形成される.数人の陪審の意見でそれが覆されるのは,衡平とは言いがたい.多人数の最低限の合意の範囲内,つまり法の範囲内で,個別判断されるべきであり,現在の陪審制は,実質的にそうなっている.
陪審に求められているのは,基本的には社会感覚による事実認定である.解釈を作り出すことは許容されるとしても,法を作り出すことは求められていない.事実認定において「事情」は関係ないだろう.解釈において「事情」は考慮される余地はあるだろう.

・民主政治は最悪の政治形態だが、それは他よりましなのか 
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2013/10/post-744.php
「アメリカ独立革命(1776年)のあと起こったフランス革命では、主権在民の思想のもとに王制が倒されて共和制になったが、恐怖政治と流血の惨事のあと、わずか5年でナポレオンの独裁政治になり、ナポレオン戦争を含めて490万人の死者を出した。
 こうした状況をみたエドマンド・バークなどのイギリスの政治家は、国民が法を超える「主権」をもつという思想は危険であり、主権がナポレオンのような独裁者に譲渡されると容易に独裁政治に転じる、と民主政治のリスクを警告した。その結果、合衆国憲法には「国民主権」も「天賦人権」も規定されていない。国家の究極の決定は、非人格的な法の支配によって行なわれるからだ。だからアメリカで最高の権威をもつのは、司法である。よくも悪くもアメリカではすべてが法律で決まり、紛争は裁判で決着がつけられる。」
ふむ.

民事で裁判員制度を利用できれば判決は覆る,という意見であるようだが,その根拠はどこから来ているのだろう?.
制度上,裁判員の意見が「法を超えるほど」絶対的になったと仮定(実質法治を認める以上検討に値しない仮定だが)しても,裁判員が味方にならなけれな判決は覆らない.陪審だとしても同じ.なぜ自分の主張が国民の代表意見であるかのような考えを持ったのだろう?.記載から自信の根拠がまったく読み取れない.
無法状態と現在の制度,どちらが国を滅ぼすと思うか選べ,と言われれば,自分なら前者を選ぶ.



日航機事故書籍事件について.
東京地裁判決 
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20130408114346.pdf
判決は基本的に妥当だと思う.(賠償金額はもう少し下げられるかもしれないし,書籍の廃棄までの理由はなくせるかもしれない.)

基本.
合意のある規制法による自由の制限は許容されることは言うまでもない.著作権による表現の自由の制限は,基本的に許容されるものである.
これを否定するには,一般論をもってするのではなく,特別な事情をもってするのが有効である.
一般論による否定は,その法の立法趣旨から歴史すべてを否定するほどの論拠が必要である.特別な事情による否定は,法が規定する範囲外であると立証すれば足りる.

正確に書くように言われたからそうしただけ,仕方ないではないか,という趣旨の主張をしているようである.
しかし,盗用,翻案は著作権に抵触する行為である.
原作者,原告,から正確に書くように言われたのであれば,事実部分だろうが表現部分だろうが,盗用や翻案するのではなく,著作権で許される引用をすべきだった.
「参考文献として巻末に明記し、」と主張しているが,それは正式な引用の方法でないので引用と認められない.少なくとも,引用部分が判るように示さなければならない.
引用をきちんとすれば,こんな訴訟にはならなかっただろう.

引用の要件は予め公開されていた.それは「相手の権利を予め示すもの」であった.その要件を考慮できなかったのは,著述の専門家として過失があったと言えるだろう.
要件認定に問題があると考えていたならなおさら,それが現実であり,それが及ばないところに逃げ出していない以上,対応しておくべきであった.
著作権の事実・表現認定における「法の解釈」には,裁判官の主観が入り微妙なところがあると思う.しかし,事実・表現認定が微妙だとしても,引用要件は明確であった.引用要件を満たすことにより,十分予め対応できたはずである.

当事者間の公平の観点から,被告に過失があるとは言いがたい.前述の老人徘徊事件では,過失を争点にできるだろう.しかし該事件では,原告の過失は明らかである.(老人徘徊事件は良い例ではなかった.いや,裁判官批判という点では,該事件が良い例ではなかったといったほうが正確か.老人徘徊事件では過失,裁判官の判断が,よろしくないと主張し得るからだ.)
被告に過失はあるだろうか?.
被告は著作を提供し,正確に書くように依頼している.これは著作権を委譲したものとも,翻案を許可したものとも受け取れない.引用を正確にするように要請したものであると考えるのが妥当だろう.特に被告に過失があるものとも受け取れない.
英米法では過失の概念を用いない.契約自体に責任が帰属するからである.(とはいえ実質的には過失認定するのだが).契約から考えても,原告に利があるとは受け取れない.英米法的な保護が得たいのであれば,決定事項は明確にする必要があった.著作権の委譲や翻案の許可を得ていない限り,英米法的保護は得られない.

これまで訴えられたことがないと主張しているようだ.
しかし,常に,問題が発生してすぐに指摘されうるわけではない.これまで無いことを理由にしてこれからも無いことを主張するには,その間に「システム」もしくは「帰納的エビデンス」が必要である.それらは主張されていないようである.
「システム」もしくは「帰納的エビデンス」が無ければ,たとえば,「私が日の出前に休みなくお参りをしたから太陽が登るのだ.私が太陽を昇らせているのだ.」,という主張も通用することになる.
これまで訴えられたことがないとは,許容される慣習があるという主張だろうか?.
しかし,著述前に制定されている明確な法がある以上,その主張は基本的に許容されない.著者の行うノンフィクションの記載方法が,法を覆す理由となるほど当事者に認められる良慣習である,慣習により原告と被告で共通の認識があったはず,という主張はなされていない,もしくは主張に足る証拠に乏しい.

当事者間の過失は原告にある.当事者間の公平としては被告有利である.
では,そも,著作権法自体に社会正義上の問題が,違憲性が,あるとの主張だろうか.

判決に根本的に不満であるようである.法の要件にも一訓あるようである.
ならば,法律審である最高裁に上告し,意見を述べ,その意見が認められるかチャレンジすべきだろう.確たる主張があるならば,やらなければならないだろう.
(間違えの可能性が高かろうが)主張すること自体は問題はない.主張を貫かないことは大問題だ.
もし,あちこちに主張するだけして,主張の正当性に関する認否チャレンジが可能にもかわからず,それをしない選択をするならば,自分の言動に責任を取らない,自由をもてあそぶ,口先だけのガキだとみなされ,今後ジャーナリストとして信頼を受けられなくなるだろう.

・子供の頃から教えたい世界を変える選挙の魔法 
http://www.newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2013/08/post-719.php
「政治の仕組みなんて子供には夢がなさ過ぎると言う人もいるかもしれないが、北欧や西欧では正反対の考え方をする親が多い。はっきり主張したいことがあれば積極的にデモに参加し、平気で子供も連れていく。小さいうちから自分の人生の主導権を握る権利と責任を自覚させることが重要だと、多くの親が考えている。」
組織化は,あえて主導権を握らない考え方,であるとは思うが.

人権問題とできるなら,法を覆しうる可能性がある.
ただし,該事件は,ある程度世界合意のある著作権の問題であり,人権問題とするのは基本的に難しいと思われる.細部否定はできるかもしれない.ECHRの判例分析をしてみないとわからないが.
フェアユースは主張できうるかな?(無理か).引用は・・・引用の要件はなんとかなるかもしれないが,やはり引用部が区別できることが最低限必要か.
・第285回:著作権政策を巡る欧州でのいくつかの動き(イギリスにおける著作権規制の緩和の検討の続き・欧州連合における著作権関係の検討の開始・欧州人権裁判所の著作権判決) http://fr-toen.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-c170.html
AFFAIRE ASHBY DONALD ET AUTRES c. FRANCE (Requête no 36769/08) http://hudoc.echr.coe.int/sites/eng/pages/search.aspx?i=001-115845
「欧州人権裁は、フランスの著作権侵害の判断が欧州人権条約第10条の表現の自由に抵触するかどうかを決めるには、その措置が「民主的な社会において必要」なものかどうかを決める必要があると前置きをした上で、以下のような表現の自由の判断原則について述べている。~」
・Case law - HUDOC (online) 
http://hudoc.echr.coe.int/sites/eng/Pages/search.aspx#{"documentcollectionid2":["GRANDCHAMBER","CHAMBER"]}

著作権の事実・表現解釈について,裁判官による解釈が主観的でありすぎる,法による著作人格権保護が強すぎると提示し,さらに差止要件をエクイティ基準にすべき,または文面を改め今後は侵害しないと主張し,最高裁で戦えば,書籍廃棄は撤回され,賠償ももう少し低額ですむかもしれない.

引用を争点にしなかった点は不思議だ.
「業界の慣習として,ノンフィクションの場合は巻末に引用を記載する」「ノンフィクションは全てが引用である(おい)」「引用の5要件解釈に問題がある」,と強く主張すれば,もう少し戦えたのではないか?.問題があったのであろうか.ないのであれば最高裁で主張しても良いだろう.(もう事実追加できないか?)

著作権法を,無条件に著者を保護するものだ,と考えているようである.
日本の著作権法は,まだ今のところ,引用を自由とした上で,特定の事項については著者の保護を認めるものであって,著者の保護を最重視としたものではない.
(不正確.条約と判例は,著作権を前提とした上で,30~50条で権利限定事項を定めている.とはいえ,学説は,権利限定の拡大は許されるとする.アメリカ他では,フェアユースによる権利限定の拡大を許す.権利限定の内,引用は,一般的で適用範囲が広いため,引用さえ正しくしていれば,「実質的に」著作権は大きく限定される.日本では,引用しても残る著作人格権が強すぎると言われている.)
特定の事項さえ,相手の権利さえ,きちんと尊重し衝突しないようにすれば,問題なく著作は利用できる.
特定の事項が増えてきており,それが問題視されている,また著作人格権が強すぎ問題視されている,など将来的な疑問の余地はある.

現実的対応は,記載を引用形式(~は~でこのように表現している.「~」.など)に変更し,将来的な侵害はないとして販売差し止めを停止してもらうことであろう.だが,あれだけ非難的な主張をしていては,手遅れかもしれない.

同 知財高裁判決 
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20131008113109.pdf
複製または翻案と認定された箇所は,1審17箇所から2審14箇所へ.賠償金額は約1万円減少.
知財最高の弁護士の一人である三村弁護士をもってしてもこれぐらい.妥当か.依頼人が足を引っ張ったのでなければ.
「控訴人Xは,被控訴人各記述は全て事実の記載であると主張する。しかし,被控訴人が当時抱いた感情を忠実に記載したから事実の記載であるとの主張は,
事実ないし事件を記述するに当たって,筆者が独自の観点で表現した部分までもが,筆者が「事実」に対してそう感じたことは「事実」であるから「事実」に当たる,と主張するに等しく,失当である。」 
(この言葉,すごい面白いなぁ.)
翻案部分が「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」だと本気で考えていたのだろうか?

著者は法学部出身のようである.ならば,以上のことはすべてわかっているはずだ.
だが,記載や公開された判決文からは,何を意図して主張しているのか読み取れない.週刊誌的な,曖昧で適当に一般化した主張は,書かれているのだが,基礎からの演繹に基づく論理的で学術的で詳細な,弱点をつく主張,は書かれていないように思える.最高裁における主張で意図が明らかになるだろうか?.

追記
20150515出版差し止め命令確定=日航機事故書籍-最高裁
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2015051400768
上告していたが,上告棄却となったようだ.
自分の主張を信じ上告をしていたことは,評価できる.
*20150515時点 判決文公開なし.
多分知財高裁と別の論理で上告棄却したのではないと思うが,後ほど確認.

同 最高裁判決
*






憲法改定について基本的姿勢
・絶対改憲派でも,絶対護憲派でもない.
・・約1億分の1の権限しか無いものの優先順位を高く考えていない.それよりも,これらを前提として何ができるかを選択する方を好む.
・憲法は国のかたちを決める基本法であるが,国民の合意が得られるのであれば,なんでも改憲すれば良い.憲法は国民のものだ.
・国民の合意を問う以上,感情が入る.感情は時期流動性があるため法に組み込むべきではなく,憲法になどもっての外だという意見もあろう.しかし,「立法と国民2段階の判断を経て改憲」される以上,理性の存在を認めるならば,それが安易な感情によるものとなるとは見なしがたい.
・また,憲法を国の形をきめるものであると考えるのであれば,「憲法こそ,感情と道徳を含めても良い法」であるとみなすこともできるだろう.
・国民投票により国民の半数の合意がなければ改憲できない.妥当だろう.
・解釈確定し時期流動性のない条項は,解釈文言を追加して確定させる,という意味での改憲はまた良し.

憲法改定について個人的意見
・96条について
・・国民の半数合意要件が変わらないならどうでも良い.
・・改憲の発議要件を緩和し,国民の議論を活発化させるのも良いだろう.
・・戦争状態に入る改憲が発議され,国民の半数がそれに同意するのであれば,国として戦争状態に入るのも仕方がない.「憲法は国家権力をしばるもの」だが,国民が自らの自由の制限を認めるならば,それも仕方がない.これも自由と責任の範疇であり,それこそが国だからだ.国民は憲法の決定者であって,隷属者ではない.(他の法律では内閣発議で立法の要請がなされた時点でほぼ決定となるため発議要件を縮小する必要があるが,憲法は違う.)
・・改憲の発議要件を緩めなくても,最終的に国民の合意が得られる案件なら今のままでも改憲の発議要件はクリアできるはずだ,という意見に反対する.ひとはモノが目の前に現れなければそれがほしいかどうかわからないから,モノができるだけ多く提示されることに意味はあるから,改憲については超党派の立場が多くなると思われるからだ.
・・96条改定絶対反対の考えの多くは,国民自体を信用しない考えだろう.
自分も信用はしない.自由感覚が十分浸透していないと考えるからだ.
しかし,信用しないとした上で,「限られた知識と理性しか持たないものが人でありそれを前提として判断すべきである」という立場に立ち,「あえて間違いであるとわかりきった改憲も許容する」考えを採る.それを前提とした上で,正しい道を議論しなければ,動脈硬化に陥るだろう
・・・そも,なぜ改悪する自由がないとできるのだ?.
個人の裁量の範疇であれば,失敗しない選択をする自由も自動的に許されるだろう.だが,これは個人ではない.
改悪の責任は国民が取るのではないか.改憲の責任を取る自由も許されないといえるのか?.それこそ「憲法というもの」が最も重要視する「自由」について,それを認めないとする考え方ではないのか?.過保護だろう.いくら恐ろしくとも,啓蒙を信じ,信用するしか無い.
自由は良否を問わない.良否を問う時点でそれは自由ではない.(青木 一愛弁護士の「大多数の国民の良識を信用すべきです。」という言葉はいいねぇ.わたしゃ信用しないことを前提にした悲観論を採用するけど.)
・・議員による改憲議論について,議員は基本的により間違えない選択をするために存在する,と考えるならば,議員の理解不足批判もあり得る.
・・・直接民主制がうまく働かず,間接民主制が比較的うまく働いている理由の一つは,議員の判断能力が国民平均より高いこと.これを前提できない時は,間接民主制もうまく働かなくなる.
・・もちろん,改憲が許されない条文が存在する,という意見は採用する.人権条項など,国際標準化が必要であり,天賦であるとみなせる条項や,少数の意見を排除してはならない条項は,いかに国民の半数の合意があろうと,改憲は許されないだろう.
・9条について
・・9条は理想を実現したもの.世界唯一.普通ならこのような条文ができることはありえない.これを捨てれば二度と取り戻せないだろう.とみなす.
・・9条は確かに2次大戦後の英米の要請によるもの.英米の若い法律家が理想を持ち追加したもの.しかし,意味があるのはその内容であり,誰がそれを作成考案したという事実は(立憲趣旨参酌時以外は)問題にならない.問題は,現在,国民がそれに価値を見出しているかどうか.
・・・「アメリカ押し付けの憲法だから改正すべき」という意見は,とても情けない意見に思える.誰かに押し付けられたから無条件で嫌だ,という理由付けをするとは.
・・「差とは力である」.9条は他国と差別化できるものであるから,その差を利用した外交をすれば良い.実際そうしてきたはずだ.その利用が難しくなったからといって9条を捨て標準化に進むのは,せっかくの力を捨て去るに等しい.そしてその力は二度と取り戻せないだろう.利用を最後の最後まで検討すべきであり,安易に捨て去るべきではないと思う.
・・9条は日本の存在価値の一つとなっている.9条があるから信頼される部分もあり,9条があるから信頼されない部分もある.「一時的に」信頼されない部分のウエイトが高まったとしても,捨てるべきではない.「恒久的に」信頼されない部分のウエイトが高まると予想されるのであれば,捨てても良いが.

 ・ヨハネス・マージング「継続と非継続の間―憲法改正―」(翻訳) http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8301277_po_075202.pdf?contentNo=1
・主要国の議会制度 http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2010/200901b.pdf
フランスは,憲法上列挙された法律事項しか議会が立法できない,という事情があるからこそ,憲法改定が頻繁になされる.他国と単純に比較してはいけない. 
・憲法改正論議、アメリカの場合はどうなっているのか? http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report3_3137.html
「アメリカの合衆国憲法は、議会で発議された後に「国民投票」で決めるというシステムにはなっていません。その代わりに、各州による批准を要求しているのです。その基準はなかなか厳しいもので、全州の4分の3が賛成しないと発効しないということになっています。」
・諸外国の国民投票法制及び実施例【第2 版】 http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8243531_po_0796.pdf?contentNo=1


・EUと立憲的多元主義 ─欧州トランスナショナル立憲主義理論─1 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=75449
「立憲主義は、三つの逆説を内包している。
 「政体の逆説」、 「少数者の恐怖と多数者の恐怖」 、および「誰が決めるかを誰が決めるか」、という逆説である。
 まず、「政体の逆説」とは以下である。政体、つまり政治的共同体は、憲法により画定され、かつ前提条件とされ、その構成要素は憲法により拘束され る。国内政体は、政治的契約を受け入れるであろう者であって、国内政策によ り影響を受ける多くの者を、特定の民族的、文化的、または歴史的意味におい て理解される「国民(demos)」の一員ではないということを理由にして、排除する傾向がある。このように、国内政体は、立憲主義の手段と考えられる一 方で、完全な代表および参加を制限してもいるのである。
  同じことが、「少数者の恐怖と多数者の恐怖」の逆説に関してもいえる。憲 法は、少数者が多数者を支配しないようにし、民主的な権限の行使を促進する が、同時に、多数者が少数者に対して権限を濫用することのないよう、多数者 の権限を制限する。憲法は、多数者が支配するメカニズムを創設しつつ、同時 に少数者が保護される権利および手続をも創設するのである。
  最後の逆説は、「誰が決めるかを誰が決めるか」という逆説である。実は、加盟国とEUの憲法の間の関係についての議論に支配的な「誰が決めるかを誰 が決めるか」という問題は、長らく立憲主義における問題でもあった。この問 題は、立憲主義に内在する権限の組織化の性質から、未解決のままにしてお き、定期的に評価することが求められるのである。」
「立憲的多元主義の可能性と問題点を理解するには、これらの立憲 主義の逆説が二つの相対する現代立憲主義のベクトルを抱えていることに注意 することが重要である。一方は、多元性に向かうベクトルである。これは、 諸々の自由や、多様性、私的自治に結びついている。他方は、単一性、つまり 階層関係に向かうベクトルである。これは、平等や、法の支配、普遍性に結び ついている。現代の立憲主義の成功は、これら双方を国家のレベルにおいて両 立させてきたことにあった。」






・・・作業中・・・
・・・大学では法律を必修にすべきだよな(時代とともに変化するものなど学んでもつまらん,と言っていた奴が何を言う)・・・


・・・などと,ブログの趣旨と違うことを書いてみる.
自転車も自動車も運動もご無沙汰でねぇ・・・


土曜:
寒いからといって室内で絵書いていると変なこと考え始め滅入るな.
中善まで絵の具と弓買いに行くか.
自転車で,と言わないところが数年前と違う.

とか言いながら自転車.
今年初ロード.
・・・
・・・
・・・
今年初ロード.


日曜:
新しいキャンバスにブルーエンジェル,ムンク風味.

2013/02/18

帰納と演繹 医師と医薬品と患者,医療事故訴訟(更新20131228)


平日:
・・・

土曜:
・・・

日曜:
・・・勉強してると書くことがない.
ターバンの少女verウォーズマン完成(勉強はどうした

あたしゃ文章書くのがホント下手だなぁ・・・

プラクティス
帰納により拡大一般化してえられた結論を,「安易に」再び縮小特定化し適用させようとすると,問題が生まれる
 e.g.臨床統計により,ある数十の個体のある医薬品に対する効果から,個体全体のある医薬品に対する効果のエビデンスが得られたとする(帰納,統計,科学的手法).
その医薬品の効果が特定の個体に適用出来るかどうかは,特定の個体におけるその医薬品の効果が実証されていないため,「確定」まではしない.しかし,「確定する」と勘違いされることがある.
例えると「この薬の添付文書には効果がこう書いてあるから,「確定的に」「だれにでも」この効果がある」など.
 この勘違いは,薬の添付文書に書かれている効果は帰納により求められたものであって,特定の個体への実証がなされているわけではないことを理解していないこと,臨床統計は確定の証明をするためのものではないことを理解していないこと,帰納とその欠点を理解していないこと,から生まれる.
 帰納だけから「確定」はできない.実証が必要.だが,実証できる場合ばかりではない.例えば,医師が医薬品を処方する場合.「この医薬品をあなたに処方できるか確かめるために,事前にこの医薬品を飲んでみてください」とはいえまい.この場合は「確定」でなく「確度高く予想する」ことを目指す.帰納を理解すること,エビデンスレベルの評価をすること,医師レベルの知識を元にした経験的臨床的予測的多面的な評価をすること.これらを組み合わせると,個体への適用性を「確度高く予想する」ことができる.医師はその「予想」に基づき,特定の個体に医薬品を処方する.そしてその効果を確かめ初めて,特定の個体への効果が「実証」され適用性が「確定」する.
ちなみにその結果は市販後調査にまとめられ,再び医師の判断材料となる.また別途医薬品の作用メカニズムが解明され,これも医師の判断材料となる
(個体適用可能性には,効果と副作用双方を含む)
(医薬品の領分は年齢人種差など適度に区分けした最低限の一般化まで.医師の領分は特定の個体への適用.医薬品の作用メカニズム(個体適用可能性の基礎含む)の解明は・・・医薬メーカーと基礎研究医双方の領分かな?.)
(「エビデンスの高い証拠」が十分に揃った(かつ安全性が十分高いといえる)場合,その治療方法を標準医療と呼ぶことができる.)
(知識の集積により「個体への適用可能性」が十分に高くなった場合,その治療方法をオーダーメード医療(治療)と呼ぶことができる.)
(標準医療と代替医療の違いは,基本的に,個体適用可能性の予測の程度の違い.)
 換言すると,帰納により拡大された結論を再び縮小特定化し適用させるには,特定対象における実証が必要.実証後は実証された範囲で演繹につかえる.特定対象による実証ができなければ適用可否が確定しないが,多面的解釈により適用可能性の確度高い予想は可能.
・「学生諸君にとって大事なことは,いろいろな性質や過程の大きさのオーダーの感じをつかむことである.その感じをつかめば,もっと複雑な事象についても半定量的な考え方ができるようになる」(ムーア)



・基礎と臨床の間 http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2013/03/%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E3%81%A8%E8%87%A8%E5%BA%8A%E3%81%AE%E9%96%93.html
・ローマ法を継受したわが国の弁理士像 http://www.jpaa.or.jp/activity/publication/patent/patent-library/patent-lib/200710/jpaapatent200710_090-091.pdf




閑話・関話?
・判例解説●高松高裁2005年6月30日判決「適応外治療の説明不足」で説明義務違反!? http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/series/dispute/201302/528672.html

事実
・医師は,乳房温存療法を主に薦めているが,今回は乳房切除術が良いと判断した.
・医師は,乳房切除術の説明をしている.
・医師は,乳房切除術による結果の説明をしている.
・医師は,乳房温存療法の説明をしている.
・医師は,乳房温存療法による結果の説明をしている.
・医師は,セカンドオピニオンができることを伝えた.
・患者は別の医師が乳房温存療法を薦めていると聞き,それについて医師に意見を求めたが,医師は別の医師の評価が低いことから薦めなかった.
・「(手術)の後患者は、医師らは乳房温存療法などについて十分な説明をせず、自らの意思で治療方法を決定する機会を奪ったなどと主張し、慰謝料など合計1100万円の支払いを求めて提訴した(民事訴訟)」

事実まとめ
・医師は,当該疾患の診断(病名と病状),実施予定の手術の内容,手術に付随する危険性,他に選択可能な治療方法があれば,その内容と利害得失,予後を伝えている.
・患者は,「説明を受けた」が,「十分な説明を受けた」とは判断していない.

理論認定
・憲13「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(憲14~個別的権利・義務記載)
・民1「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。2  権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。3  権利の濫用は、これを許さない。」
・民2「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。」
・「個人の生命身体精神および生活に関する利益は各人の人格に本質的なものである.このような人格権は何人もみだりにこれを侵害することは許されない(大阪高判昭50)」
・「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない(例えばいわゆる尊厳死を選択する自由は認められるべきである。)。)(東京高判平10平成9(ネ)1343 損害賠償請求事件@ )(最高判平12)」
・「医療は、生命の尊重と個人の尊厳の保持を旨とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と医療を受ける者との信頼関係に基づき、及び医療を受ける者の心身の状況に応じて行われるとともに、その内容は、単に治療のみならず、疾病の予防のための措置及びリハビリテーションを含む良質かつ適切なものでなければならない(医療法1条の2,1項)」

 「患者には,最適でない医療だとしてもそれを選ぶ自己決定権がある」
 「医師は患者に情報を伝える」
 ただし,
・「(医師は),具体的にかつ被質問者(患者)に的確な応答を可能ならしめるような適切な質問をする義務がある(最高裁判決昭和51.9.3)」
・「医師は、診療したときは,本人またはその保護者に対し,療養の方法その他保健の向上に必要な事項の指導をしなければならない(医師法23)」
・「医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、第一条の二に規定する理念に基づき、医療を受ける者に対し、良質かつ適切な医療を行うよう努めなければならない。2  医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない。(医療法1条の4,1項,2項)」
・「医師は,患者の疾患の治療のために手術を実施するに当たっては,診療契約に基づき,特別の事情のない限り,患者に対し,当該疾患の診断(病名と病状),実施予定の手術の内容手術に付随する危険性他に選択可能な治療方法があれば,その内容と利害得失,予後などについて説明すべき義務があると解される。~ここで問題とされている説明義務における説明は,患者が自らの身に行われようとする療法(術式)につき,その利害得失を理解した上で,当該療法(術式)を受けるか否かについて熟慮し,決断することを助けるために行われるものである。(最高判平13.11.27)」
・「一般的にいうならば,実施予定の療法(術式)は医療水準として確立したものであるが,他の療法(術式)が医療水準として未確立のものである場合には,医師は後者について常に説明義務を負うと解することはできない。とはいえ,このような未確立の療法(術式)ではあっても,医師が説明義務を負うと解される場合があることも否定できない.少なくとも,当該療法(術式)が少なからぬ医療機関において実施されており,相当数の実施例があり,これを実施した医師の間で積極的な評価もされているものについては,患者が当該療法(術式)の適応である可能性があり,かつ,患者が当該療法(術式)の自己への適応の有無,実施可能性について強い関心を有していることを医師が知った場合などにおいては,たとえ医師自身が当該療法(術式)について消極的な評価をしており,自らはそれを実施する意思を有していないときであっても,なお,患者に対して,医師の知っている範囲で,当該療法(術式)の内容,適応可能性やそれを受けた場合の利害得失,当該療法(術式)を実施している医療機関の名称や所在などを説明すべき義務があるというべきである。(最高判平13.11.27)」

・インフォームド・コンセントは法的要件であり,医師は「最適な医療を提案」し,「最適でない医療も提示し患者の知る権利を満たし」,「予想される結果を伝える」必要があると考えられている.
・インフォームド・コンセントの成立要素は,患者の同意能力,医師の説明,患者の理解,患者の意思決定による同意


・インフォームド・コンセントの法源は,医療法1の4と最高裁判決(ヘルシンキ宣言は法源ではない)
・過失の法源は民709不法行為.
・不法行為の過失には2要素,1結果の予見可能性と,2結果の回避可能性がある.問題点として「誰を基準として注意義務の水準を考えるのか」という問題があり,抽象的過失(一般人を基準とした注意義務)または具体的過失(行為者当人の能力を基準とした注意義務)が問われる.

医療訴訟における法判断は次の2段階からなされるようだ.
1 インフォームド・コンセント=医師の「説明責任の過失」,患者の自己決定権?
2 医師の「実施した治療方法の過失」
つまり
・インフォームド・コンセントなし→医師の「説明責任の過失」あり→医師の「実施した治療方法の過失」なくとも,患者の自己決定権侵害で医師の違法行為認定
・インフォームド・コンセント一応あり→医師の患者に対する説明責任・説得責任が十分であったか→医師の「実施した治療方法の過失」があったか→医師の過失認定,もしくは患者の自己責任認定.

・インフォームド・コンセントが実施されたと認められなければ,黒.
・インフォームド・コンセントが実施されたと認められても,それが十分かどうか疑問があれば,灰色.
・インフォームド・コンセントが十分に実施されたと認められても,医師に実施した治療方法上の過失があれば,黒.
・インフォームド・コンセントが十分に実施されたと認められて,医師に実施した治療方法上の過失がなければ,白.

本案件では次が問われているようだ
・インフォームド・コンセントが実施されたと認められても,それが十分かどうか疑問があれば,灰色.
つまり,医師の「説明責任の過失」について(判決全文を入手できていないため未確定)

法解釈
・医師の「説明責任の過失」は,司法により次のように判断された.
・地裁:患者側の請求棄却
・高裁:患者側の控訴.患者側の請求認定.
「「生検結果などから本件の患者は乳房温存療法の適応である可能性は低かったものと認められるとしながらも、一審判決を覆し、医師側の説明義務違反を認定。大学およびA、Bに、連帯して240万円を原告に支払うよう命じた。」
「裁判所は、患者が乳房温存療法に強い関心を有していることを医師らが認識していたと推認。その上で、「乳房切除術および乳房温存療法のそれぞれの利害得失を理解した上でいずれを選択するかを熟慮し、決断することを助けるため、患者に対し、医師らの定めている乳房温存療法の適応基準を示した上、患者の場合はどの基準を満たさないために乳房温存療法の適応がないと判断したのか、という詳細な理由を説明することはもちろん、再発の危険性についても説明した上で、医師らからみれば適応外の症例でも乳房温存療法を実施している医療機関の名称や所在を教示すべき義務があったというべきである
「(医師は)乳房温存療法は適応外であり、乳房切除術によるべきであることを説明したにとどまり、乳房温存療法が適応外であることについての上記説示のような詳細な理由を説明したとは認められない」
 Bが患者に対し、がんセンターなどの名を挙げたことについては、「これは、乳房温存療法は適応外であり、乳房切除術によるべきこととした判断についてセカンドオピニオンを受けることのできる具体的な医療機関を教示したにとどまる」として、「Bからみれば適応外の症例でも乳房温存療法を実施している医療機関の名称や所在を教示したと認めることはできない」と判示した。
上告受理申立も却下され、判決は確定している」
(判例全文入手できなかったため引用

説明責任不足とみなされた点
(判決全文読まなければ定かで無いが)
・1医師は,「非浸潤性乳管癌の場合、一般に乳房切除術と乳房温存療法があり、自分は乳房温存療法を積極的に行っているが、患者の場合、広範囲の乳管内進展型で、マンモグラフィー上も乳房の中に癌がたくさん残っているので、乳房温存療法は適応外であり、乳房切除術によるべきであることを説明したほか、現時点では転移がないため、乳房切除術を行えば予後は良好であることなどを伝えた。」ものの,乳房温存療法は適応外である理由の説明が不足とみなされた.
→つまり,「患者が特別の関心を持っていた場合」には,「ガンの残存により(切除によりガンを取り出さなければならないため)乳房温存療法は難しい」と伝えた程度の説明では,患者が判断するのに十分な情報を提供したとはいえない.「患者が特別の関心を持っていた場合」には,「どの程度ガンが残存していたらどの医療を選ぶべきかという医師の判断基準を示し,ガンの残存がどういう結果を及ぼすかまで明確に提示するべき」であった.(でよいか)
・2医師は,「がんセンターなどの名を挙げた」が,これは「医療機関の名称や所在を教示した」とは認められず説明不足とみなされた.

私見1
・前提:患者には,それが効果がないとしても,その治療方法を選択する権利がある.治療選択の責任は基本的に患者にある.ただし,例外として,医師による十分な説明がなされていない,及び/または治療にミスが有った場合には,医師に責任がある.はずである.
・(判決全文読まなければ医師の主張と患者の主張が定かで無いが)
・1について:
この患者は治療方法に特別の関心を持っていたといえるため,より詳しい説明を受けていれば,より高い確証を持って治療方法を選択できたと期待されるということができ,医師の説明責任不足であることは認められる(通常の患者より高いレベルの基礎知識を(少なくとも将来的に)持つと予想でき(可能性があり?)たため,より詳しい説明をする必要があった)(インフォームド・コンセントにおいては,説明の不足が問われるのであり,それが最適な医療の選択に妨げになるかどうかは問われない)
ただし,この患者は,治療選択の回答期限までに,わからない事項に対し医師に質問し,理解に勤めることができたはずである.いや,治療方法に特別の関心があったからこそ,わからない事項に対し医師に質問をする義務があったというべきである.今回の場合,患者は,自ら自己決定権を放棄していたと言えないか(理解とは,供与者の説明と,受容者の理解・納得からなる,相互的なものであるはずである).もしそうなら,医師の説明責任を問うのは酷であろう.
また,もし,医師が「より詳しい説明」のことを,治療選択の回答期限までに患者が理解できると期待できない説明,もしくは「患者による「最適な治療選択」の妨げになる説明である」,と判断し,あえて説明を避けたというような特別な事情があるのであれば,医師の過失は軽かったとみなすべきであろう.(医師が「より詳しい説明」のことを,「患者による「最適な治療選択」の妨げになる説明である」,と判断し,あえて説明を避けた場合は,「医師の過失を認めない」と出来るかもしれない.)
・2について:
医師の説明責任不足であることは認められる.
ただし,がんセンターなどの名を聴いた患者が,その施設を探すのに困難性があったとは考えにくいため,患者は実質的に説明を受けたとしてしかるべきと考える.

私見1まとめ
・医師の説明責任不足を認めるとしても,患者が自己決定権を放棄した分の相殺をしてしかるべきと考える.そしてその相殺により,損害賠償額は相当量減らすべきであったと考える(判例全文が入手できていないので解らないが,実際にこの理屈で損害賠償額が減らされているのかもしれない.)

私見補足:医師の「実施した治療方法の過失」はどのように判断されるだろうか.
・「誰を基準として注意義務の水準を考えるのか」について.
医師当業者とするのが妥当だろう.その際参照されるものとしては,別の医師の意見(共通認識を持つ医師というものが存在するとして),ガイドライン,エビデンスであろう.
・1結果の予見可能性は,正しく判断され,適切な治療方法が選択されたと思われる.
・2結果の回避可能性は,正しく判断され,適切な治療方法が選択されたと思われる.
・医師の「実施した治療方法の過失」はなかっただろう.


疑問メモ
・「患者が自己決定権を十分行使しなかった分の相殺」は認められる余地があるものであろうか?
・民事では患者の感情を法に適用する方法がないように思える.患者の感情を法に適用する方法があるものであろうか.
・次の問題を解決できるだろうか.
多くの患者:医師から「複数の選択肢」を与えられ,それらが単に「重みをつけた予想」だと知らされ,それらについて「予想される結果」を知らされる.少なくとも不安に思う.聞いてもわからない.なのに選択を迫ってくる.
多くの医師:患者のことを考えた正当な倫理観に基づき説明と説得を行う.「予想される結果が重大」であった場合,「大きく重み付けされた予想」である標準医療へ誘導する.「予想される結果が軽度」であれば,誘導はしないかもしれない.
 患者はわからないので同意できない.医師はわかってもらえないので同意が得られない.結局患者はよくわからないままに,理解を擬制し,同意書にサインする.
 患者はよくわからないままに同意したため,悪い結果となった場合,後付で理由を見つけ,医師の説明が十分でなかったと不満を持つ.
 自己決定権と組織化の相殺が必要か?
・患者は,知りたい重要な事項について,解らなければ勉強し解るようになれば良い.しかし,それを義務付ける法はない(専門家には義務付けられていることもある・・・と思ったがみつからない.まあ教育について不法行為問われることがあってはならんか)(憲法26「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」).自己決定権と自己責任はこれについてどう考えるのか.
インフォームド・コンセントは,患者にとっては,知る権利を満たしてくれる反面曖昧さの中から決断を下さないといけない酷な制度であり,医師にとっては,困難な説明を問われるやはり酷な制度であると言える.インフォームド・コンセントは自立した個人においてのみまともに活用されうる.法の質が国民の質に左右されるように
インフォームド・コンセントにおいては,医師にも患者にも一定のレベルが求められる.理想通り実現可能であろうか.
・片務的である説明と,双務的である説得は,分けるべきである.医師に説明に加え説得まで義務付けられているようだが,それは酷ではないか
・インフォームド・コンセントでは「患者はわからない範囲内で判断するもの」を前提とするようだが,法判断にはそれは反映されていないのでは.説得が双務的である以上,医師に専門家責任を課すように,患者にも自己決定義務を課すべき.自己決定権を行使した場合には,どんな時でも,自己に一定の,免責のない自己決定責任を追わせるべき.説明においては医師のみに責任を負わせるのは良いが,納得・理解・同意においては医師と患者双方に等分の責任を負わせるべき.これは十分現行法の解釈の範囲内と出来ると思う.
・わからないからという理由で,自己に関係する事項の決定を他人に委ね,その決定の責任も相手に取らせる,ってのは,法的根拠があるのか.
・判例は,患者の「自己決定権における自己責任,自己決定義務」はあまり認めていないようだ(詳細確認必要).
(確認
権利は法により,または生まれながらに,個人に与えられる(いわゆる「権利」と「人権」).
「権利」は,個人が,国家や他人に対し主張するもの.「権利」を主張された他人には,権利が正当である場合,権利に対応する「義務」が生じる.権利は国家と個人との契約により生じるとみなされる.個人は権利の対価として,通常相対する別の義務を履行する必要がある.
人権は,生まれながらにして持つもの.人権により自由を行使する際には,責任が生じる.
権利と義務の対比,自由と責任の対比.
自己決定権が「権利」であれば,他の義務の履行による相殺.自己決定権が人権であり自由の行使であれば,自己責任による相殺.でよいか?.
 憲11「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」
 憲12 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
 憲13 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 憲97「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
基本的人権は憲11,自己決定権は幸福追求権憲13から解釈されるはず.
基本的人権以外の人権がすべて幸福追求権として保障されるものと理解されている.
自己決定権に対し自己責任が成立する要件は,次のとおりとして良いか.
幸福追求権から求められる自己決定権を,あらたな人権であり,個人に行使する自由があると認めるのであれば
自己決定権行使において,自己責任が生じる.
しかし「正面から自己決定権を人権であると認めた判例はない」そうな.しかし司法の判断でどうとでもできそうでもあるな.もう少し考えよう)
・自由と責任の対比における法的根拠.憲13からは公共の福祉に反しない限り,自由は最大限に尊重される.定義としては「責任(せきにん、英: responsibility)とは、元々は何かに対して応答すること、応答する状態を意味しており、ある人の行為が本人が自由に選べる状態であり、これから起きるであろうことあるいはすでに起きたこと の原因が行為者にあると考えられる場合に、そのある人は、その行為自体や行為の結果に関して、法的な責任がある、または道徳的な責任がある、とされる。」(医師が自由に選べる状態であれば,医師に結果責任がある.患者が自由に選べる状態であれば,患者に結果責任がある.インフォームド・コンセントを受けている以上,自由を行使しているのは患者であり,医師は自由の行使自体には関与していない.よって患者に結果責任がある.医師にはこれと別に専門家責任があるので医師と患者で一部相殺,と考えて良いと思うのだが.
・最近,代替医療の範囲がインチキも含まれる程に広くなりすぎている.それについても説明義務がかされるのはたまらんと思う.説明義務のある医療についてのガイドラインが必要か?
・私法を成立させ妥当な権利行使できるようになるには,罰則なくとも法を守る意志と,個人の自立から生まれる自己責任の認識が必要だが,それがなされていないことに問題があるのではないか?.
・英米法を採用するアメリカでは,不法行為違反は精神的損害では認められないというように日本と法体系が異なるため,説明責任違反で訴訟になることはまずないそうだ.本当か?
・説明時の過失と,医師の治療方法選択における過失を,きっちり分けたいのだが,判例でどうなっているか調べておくこと
・医師は「予めすべての事実をしっていなければならない」かつ「答えが一義的にありえたはず」と.「予めすべての事実を知ること」「答えが一義的にありえたはず」はできない.医療は,帰納統計的予想と主観からなる曖昧なものだからだ.一部医学書に書かれるような基本的事項を除いて,治療の個体適用性において確定予想などありえない. 医療事故では,事実要件が曖昧になる分,後付が大きく問題と成りうる.実際の医療事故の判例において後付はどの程度問題か?
・「ある療法が最適と判断した時に,医師が同時に患者に説明すべき療法の一覧」はあるか?.これがないと,医師が説明責任を果たすのは非常に困難,と言わざるをえない.流石に治療法全て覚えておけというのは困難だろう.代替医療が採用されれば尚更.患者の求めがあった場合のみ代替医療を説明する必要がある,と限定されていればよいのだが.
・医師が「より詳しい説明」のことを,「患者の「最適な治療」選択の妨げになる説明である」,と判断し,あえて説明を避けた場合は,「医師の過失を認めない」と出来るかもしれない.調べること
・「そりゃ,聞き手は,「わかりやすい説明で騙して欲しい.そうすれば自分に責任はなくなる」,と考えているから,要約のわかりやすさ「のみ」求めるのさ.」


今のとこのまとめ
 医師の判断は,客観的統計予想と,主観的経験からなされる.客観的統計予想は十分であることは少なく,個体適用性は不明である.医師の主観的経験から個体適用性は判断されるが,医師の能力に左右される.個体への適用という医療行為は,医師の主観から離れることはない.
 医師は,予想と主観から治療を行う.
 いくら医師に専門家責任があるとはいえ,患者にも自己決定権がある.医師の説明責任を過剰に判断するのはどうか?.説明と納得の2つに分け,医師と患者双方に責任を分担すべきだろう.
 また治療に問題があっても,演繹による確定事項について間違をしたとまではいえない.不法行為の過失責任は,当時の医師の主観,認識を考慮に入れた上で,当業者の判断をベースとし判断されうるべきだろう.

 1「医師は,該医師が最適と信じる医療とその他選択できる医療を患者に説明した後,該医師が最適でないと信じる医療を患者が選択したとしても,それを妨げてはならない.」とし,「患者の自己決定権>医師の説明責任」さらに「医師は説得責任までは課されないこと」が明確になるように,法改正したらどうか.
 2「医師は,該医師が適当でないと信じる医療の実施を,強制されない.」とし,「患者が医師に対し無茶な要求をすること」「医師が,医師自身がよく理解していない医療を患者に適用すること」を避け,他院への転院を促せうように法改正したらどうか.ある医療が専門の医師以外においておこなわれては,医師患者とも不幸だろう.これ医師法に反してるとは思うけど.
 3「医師は,その治療に緊急性があり,かつその治療について説明を受けた患者がその治療に対し明らかな拒否をしておらず,かつ当業者にとりその治療が医療の結果においてあきらかに不適切であったと言えない場合,医療の結果について過失を問われない」と,緊急時の過失の判定基準が明確になるように法改正したらどうか.今までも緊急時は説明責任の例外とできえたようだが今ひとつ明確でない(患者の気管支動脈の走行異常のための検査において生検が不可欠となった事案につき、「患者から同意を得た施術を行う過程で、新たに緊急な必要性のあることが判明した検査であって、軽微な侵襲を伴う程度の検査を行うことは、それが本来の施術とは直接の関係が明かとはいえない場合であっても、事前に包括的な診療上の同意がある限り、特にあらためて個別の説明を行わないで、その検査を実施しても説明義務に違反するとまではいえない。(東京地裁平成3.7.25)」).緊急時以外はこれまで通り過失判定して大きく問題は無いものと思う.




良きサマリア人の法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%8D%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B3%95
は,立法化するとしたら医師適用出来るのかな?

 いまある治療ガイドラインは,添付文書の効果と同じ,確定していない帰納だ.これをより精密な,きちんと法的拘束力のあるガイドラインとし,適切な医療を順位づけする方法もある.まあ,ガイドライン絶対で個人への適用の実証不要とすることが可能であるなら,そもそも診断医いらんけど.

・診療ガイドラインと法的責任について
http://www.medicalonline.jp/pdf?file=hanrei_201103_01.pdf
・ガイドラインは医療訴訟に悪用される?
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t003/200804/506213.html
「「民事責任の確定のためであれば、可能な限り病気発生の機序等を確定しなければならない。そして、予防法・治療法の開発等の目的からすれば十分な証明があったとはいえない場合でも、民事責任の確定の目的からすれば、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信がもてるといえるような場合があるはずであって、このような意味において真実性の確信がもてる事実は民事責任確定のための前提事実とすべき」(平成9年度最高裁判所判例解説より)」
・判例に基づいた医療 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%8C%BB%E7%99%82
・医科学研究におけるインフォームド・コンセントの意義と役割
http://www.sci.tohoku.ac.jp/hondou/0826/img/yonemura-2.pdf
・医療事故弁護士法律相談センター  自己決定権の為の説明義務
http://www.avance-lpc.com/lecture/ml/23.html
国立保健医療科学院 患者の視点に立ったインフォームド・コンセント
http://www.niph.go.jp/entrance/pdf_file/chapter3.pdf
・ブログ 医師はどこまで説明義務を負うか
http://www.medical-law.jp/blog/?page_id=54

・国立国会図書館サーチ「自己責任 自己決定権」
http://iss.ndl.go.jp/books?any=%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%B2%AC%E4%BB%BB+%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E6%A8%A9&except_repository_nos[]=R100000038&except_repository_nos[]=R100000049&except_repository_nos[]=R100000073&op_id=1&display=&ar=4e1f&

自己決定権の論点 アメリカにおける議論を手がかりとして 国立国会図書館情報誌レファレンス
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200605_664/066406.pdf
・・自己決定権は,日本法で明文化されていない.自己決定権は学説から解釈されており,法源は憲法
・・「日本の判例・通説によれば、 「明文なき権利」は、 憲法第13条後段の 「生命、 自由及び幸福追求に対する権利」、 いわゆる幸福追求権により保障されると解されているが、 初期はそのような解釈はとられていなかった。」
・・「現在の通説は、 「公共の福祉」 について前述の危険性を回避する巧みな解釈をとることで(59)、第13条を法的規定と解している。 そして第13条後段の幸福追求権の法的性格を、 第14条以下の個別的権利を包摂するとともに、 それ自体、 独自の具体的権利を規定する包括的基本権として、「明文なき権利」 の根拠と解しているのである(実定的権利保障規定説)。もっとも、 一般法と特別法の関係のように、第14条以下の個別的権利については個別の条文によって保障されるから、 第13条後段の幸福追求権は、 個別の条文によって保障されないもの、すなわち 「明文なき権利」 を補充的に保障するものと解されている(60)。」
・・「広義のプライバシー権のもう片方である自己決定権については、 後述するように、 いまだ正面から承認されていないのであり、 自己決定権が 「明文なき権利」 のいわば主役であるアメリカの判例と大きく異なる。 その理由の一つは、 日本ではアメリカと異なり、 自己決定権の典型ではなく、 自己決定権に属するかどうか、 まさに争いのある事柄に関して争われたことにある。」
・・「興味深いことに自己決定権は、 アメリカにおいても日本においても、 憲法の明文がないにもかかわらず、 憲法の解釈により憲法上の権利として承認されている。 しかしそれは、 憲法の有する動態的な性質のみによって可能になったわけではない。 そもそも、 政治哲学の次元で、 政府は個人を道徳的人格、 すなわち自律的存在として等しく扱わなければならないことが要求されるのであり、 近代立憲主義は、 この政治道徳的原理にコミットしていると考えられるのである(101)。」
・・「人格的利益説は幸福追求権を「人格的生存に不可欠な利益」を保障したものと解し、その保障範囲を限定する。~13条後段の幸福追求権を、第13条前段の「個人の尊重」と一体的に解する~13条前段は,政府が個人を「道徳的人格」、すなわち「自律」的存在として尊重することを規定しているものと解する。~「切り札」としての権利.」「(一般的行為自由説)は幸福追求権を、一般的行為の自由を保障したものと解し、その保障範囲を基本的に限定しない~この学説は、「明文なき権利」の承認にあたり懸念された「人権のインフレ化」を深刻化する。」(人格的利益説では責任を問えないかもしれんのう)
・・「幸福追求権の性格に関する学説の対立は、「明文なき権利」の一つである自己決定権の保障範囲に、そのまま反映される。」
・・「自己決定権に属するとして議論されるものは、次の四つに整理されうる。①リプロダクションに関する決定(断種、避妊、中絶など)、②生命・身体の処分に関する決定(医療拒否、尊厳死、積極的安楽死など(71))、③家族の形成・維持に関する決定(結婚、離婚など)、④ライフ・スタイル(外見、趣味など) に関する決定である(72)。しかし、これらすべてが自己決定権として保障されるかどうかは、解釈の分かれるところである」「一般的行為自由説によれば、①から④すべてが基本的に自己決定権として保障される。もっとも、だからといって、規制が許されないわけではない。これに対し、人格的利益説によれば、原則として、①②③は「人格的生存に不可欠な利益」とされ、自己決定権として保障されるが、④は不可欠とはいえないとされ、自己決定権としては保障されない。」
・・「治療義務の限界については、医師が可能な限りの適切な治療を尽くし医学的に有効な治療が限界に達している状況に至れば、患者が望んでいる場合であっても、それが医学的にみて有害あるいは意味がないと判断される治療については、医師においてその治療を続ける義務、あるいは、それを行う義務は法的にはないというべきであり・・・」
・義務
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%8B%99
・自己決定権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E6%A8%A9
・・「自己決定権は権利か [編集]
自己決定権を憲法から導き出そうとすれば、それは日本国憲法で言えば第13条の幸福追求権から導き出せるものであり、文言からすれば「公共の福祉に反しない」限りにおいて尊重される。しかしながら、ある特定の行為を自己決定権として裁判で明言することは、そのことについて権利としての先例を作ることになり、司法の側には困難が伴う。現時点で、自己決定権を正面から認める最高裁判所判例は存在しないとされる。肖像権や環境権と同じ性質の権利であり、人々の生活水準が向上した結果、「その他もろもろの権利」に当たる幸福追求権のカタログが分厚くなって、自己決定権が言われるようになったとも指摘される。国際人権規約(自由権規約、社会権規約)の各第1部第1条には集団的決定権としての民族自決(self-determnation)が明記されているが、心理学の自己決定理論(Self-determination theory)やジョグジャカルタ原則第3原則ではこの(self-determination)が個人の決定権の意味で用いれている。障害者権利条約第3条a項では「自分自身で決める権利」も含めた自己決定権(autonomy)が保障されるに到る。」
・自己責任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AC%E4%BB%BB#.E8.87.AA.E5.B7.B1.E8.B2.AC.E4.BB.BB
「自己責任」の社会と行政法(元最高裁判所判事)
http://www.law.tohoku.ac.jp/~fujita/gakuinkoen.html
・・「「自由かつ自律的な社会」を成り立たせ、支えるものこそが、「自己責任原則」なのであって、それはすなわち、自己のことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う、という原則であるに他ならない。」
・・「しかし、この一見した民主性は、実は他面で、大勢に対し個人が正面切って異論を述べる事態があり得ることを前提ないし想定しないものであり、その意味において西欧流の民主主義とは大いに異なり、また、一見した社会(主義)性は、そういった利益の配分が、専ら、特定の集団内部限りでの配分としてのみ考えられ、集団外の者に対しては、むしろ徹底的な差別を以てすら臨むことを許すものである点において、西欧流の博愛・平等の精神とは、これまた大いに異なるものであった。」(かなり同意するところは多い)
・「meigenbot あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである。 (仏思想家 Michel de Montaigne) http://amzn.to/kQCNxH」
・カント「啓蒙について」
「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある」「「未成年状態」にとどまってる原因は自分の悟性を使用しようとする決意と勇気を欠いているからである」

・「本当に」医者に殺されない47の心得 [心得30] 本当は怖い、患者中心の医療 http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2013/07/%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E5%8C%BB%E8%80%85%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8447%E3%81%AE%E5%BF%83%E5%BE%97-%E5%BF%83%E5%BE%9730-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AF%E6%80%96%E3%81%84%E6%82%A3%E8%80%85%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%8C%BB%E7%99%82.html (患者自己決定の前提,その自由を行使したことにおける患者の自己責任の認定.その上で救済も認定.中庸.パターナリズムの否定.誰が中心かは明確にしておかないと訴訟において責任が明確になりにくいとは思うけど,まあ訴訟ごとに個別総合判定しても良いとは思う.)
・「本当に」医者に殺されない47の心得 [心得39] リビング・ウィルをどう考えるか。パラダイムシフトの可能性について http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2013/07/%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E5%8C%BB%E8%80%85%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8447%E3%81%AE%E5%BF%83%E5%BE%97-%E5%BF%83%E5%BE%9739-%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%88%E3%81%AE.html

・医療崩壊を招きかねない医療安全事故調査委員会(事故調) http://huff.to/1imR7ML


・インフォームド・コンセントの考え方は,
医療に社会保険が関与していない(いなかった)アメリカではピタリと当てはまるが,
医療に社会保険が関与している日本では,ちょっと考えどころかもしれない.
社会保障が関与しているのならば,患者個人の選択の自由はある程度調整されてしかるべき,だからだ.
とはいえ,医療は個人の生命に関わることであるので,一般には,個人の自由を最大限に尊重すべき,ともいえる.

生命に重大
→個人の自由尊重((エビデンスのない)医療の選択,(エビデンスのない)薬の要求など)→助かる命も助からなくなる可能性:生命に重大だからこそ医師が誘導すべきという意見(過去の一般的考え方).いや個人には自殺の権利もあるので医師は専門家としての公平で合理的な説明をするだけで十分でありそれ以上するべきでないという意見(これに理解されることを足せばインフォームド・コンセント).患者がリスクの大きな選択をした時「のみ」強く誘導するという現実的な施行.:患者の理解力により結果が異なる.患者はその選択が自殺行為と認識できたか.
(患者がした自殺行為の選択の責任は,基本的には患者にあり,副次的に専門家としての高い責任が医者にある.どちらがより大きな自由を行使したといえるか)

生命に重大でない
→ 社会による個人の自由調整(患者が求めても,医師が一般論として不要と判断する薬は供給しない,など)→医師の誘導優先:自由を行使できない患者の不満.医師の選択責任増大.

うむう?.なにかおかしい.
生命に重大でない医療を設定することが問題か?

インフォームド・コンセントは,医師にも患者にも厳しいのう.
自由基準の考え方は,常に厳しいものだが.
他人の奴隷でなく個人的な人間としてありたいのであれば,自由基準の考え方を採らなければならないが,厳しいのう.


・患者中心の情報管理とそれを可能にする新しいインフォームドコンセント
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/57/1/57_3/_pdf

2013/02/10

体罰 主観 ロジカルシンキング

平日:
運動せず
週末ダウン

土曜:
ダウン

日曜:
ダウン

月曜:
ダウン
・・・なして・・・

平日:
食事をろくにしていないのだが膨満感がひどい.

話題の体罰について
よく聞く意見は次の構成.
「過去を振り返り,体罰を受けたことがその後の人生に役に立ったかどうか」の事実の有無が主観的に判断され,「体罰が必要かどうか」の解釈がなされている.
しかしこの解釈が成り立つには,前提条件として,「自分の経験のうち何が役に立ったか,自分の主観で判断できる」といえなければならない.また,「自分の経験が,将来的に,他人にも同じように適用できる」といえなければならない.
前提条件満たせないだろう.

類似例.
安全な自動車の設計方法として,安全に走行できる性能の範囲内で,危険な状況に陥る前に,これ以上は危険と知らせるために,あえて危険を感じさせる設計方法がある(ロールを大きくするなど).
この設計を採用した安全な車は,限界前の低いレベルで,危険を感じやすい.
自動車を購入する客は,危険な車,ではなく,危険と感じる車を,危ない車と感じ,購入をためらう.
危険な車と,危険と感じる車は,イコールではない.
客は,危険と感じる車を避ける事で安全な車を選択したつもりであろうが,そうであるとは限らない.
(ロールする車より,ロールしない車のほうが安定で安全に感じる.しかし,設計でもう一手間加えていないただロールしないだけの車は,限界になるといきなりすっ飛んでゆく傾向がある.すっ飛ぶかどうかは荷重とグリップで決まる.たとえばスタビライザーのみ強化すると,ロールは抑えられ安定感が増すが,車体剛性が高い場合は特に,内輪の荷重抜けが起きやすくなり限界は下がる.この内輪の荷重抜けを防ぐには,車体重量配分や剛性の見直しと見合ったサスの導入を行い,バランスを改善させる必要があ).このように,危険と感じにくい危険な車は十分ありうる.).
危険性と危険感の相違を知り安全な車を選択するためには,危険性とは何か,を知らなければならない.
1摩擦の限界を超えた挙動を試し2摩擦の理論を知り3摩擦の限界を知る,必要がある.
これが前提条件.

主観を無条件で一般化する誤りまたは主観が正しいとみなす誤りを犯している.
主観は多くの場合穴だらけなので,あまり議論や判断の根拠としないほうが良い.客観的合意性を主観に優先すること.
まあ,最終的には主観なくして判断できないけど.帰納法の弱点は無くせない.

一つ.
自分が納得したいだけの理由が必要なのか,誰かを納得させたい理由が必要なのか.
その2つは全く異なるものなので,きちんと分けたほうが良い.
自分が納得したいだけなら感情的意見でも宗教でもなんでも勝手にすれば良い.
だが,自分が納得した理由が客観性を持たない場合,人に押し付けんな.

重要な証拠よりも主観を重要視するように脳はできているようだ.
理性的な人間になりたいなら,主観を抑え,客観的に重要な証拠を重要視すること.
これを,ロジカルシンキングのゼロベース思考という.


土曜:
車遊び

日曜:
車遊び
第二東名初乗り.
つまらん道だ.やはり中央道のほうが楽しいなぁ.
PAはいまだ渋滞多し.しかも大して美味しい物があるわけでもなく面白いものがあるわけではなく.皆人ごみを楽しんでるのかね??
道の駅巡りのほうがよっぽど.
初アストン.DB9