2015/02/28

それを自己責任とは呼ばない~法的側面に触りつつ~ ISIL渡航 風立ちぬ

プラクティス
(いつもどおり思いつくまま追記)

各人の自由を尊重した上で,その結果については「まず」本人が責任をとる.というのが自己責任.
自己責任とは、責任の所在の優先順位をのべたものであり、責任がすべて自己に存在することも意味しないし、他のものに責任がないことも意味しない。
自由の選択と,責任の選択は,個人に任されており,法で示されていない限り,他人が強制するものではない.
その上で,結果についての最低限の保証は国がすることになっている.
今回は人命案件なので国が保証して良い.


各人の自由を尊重しないで,つまり「そんなところに行くほうが悪い」といった上で,「助けないと言う形で命をもって責任をとれ」、という主張の仕方は,自己責任とは違う.
責任の優先順位と同時に,責任の存在範囲まで,自己のみにある,と確定させ,その双方を「自己責任という概念」にまとめてしまうという過ちを犯している.

また,「責任を取れないこともある.責任をとれる範囲のことしかやるな」,という主張の仕方も自己責任とは違う.

特に,「責任を取れないこともある.責任をとれる範囲のことしかやるな」,という主張には問題がある.
責任を取れないこともある、とは、責任の概念のすべてのうち、という意味となる。その概念には本質的な責任も含む。
で,
世の中,本質的に責任をとれることなど無い.
法では責任を(刑法で定める以外は)金銭に転換することになっているが,それは本質的に責任を果たしていることとは違う.
本質的に責任が取れない以上,「責任を取れないこともある,責任をとれる範囲のことしかやるな」,という主張は,何もするなと言っているに等しい.


えーっと.生きるに値する責任をとっているものはいない.しかし,生きている,生きることは許されている.

生きてゆく以上,社会的動物として生きてゆく以上,本質的な責任をとる必須性はない
法はそれを前提としている.法では責任を(刑法で定める以外は)金銭に転換することになっている.
(これ知らない人が多いかもしらん.「目には目を」のハンムラビ法典のような法が現代の法に承継されていないのは,それなりの理由があるんですよ.)

「責任を取れないこともある.責任をとれる範囲のことしかやるな」が金銭的な責任の範囲のことを主張しているのであれば,今回は責任をとりえた可能性がある.その場合は主張に意味が無い.


自由が先にあり,責任は自由の行使がなされた後発生する.
責任は,当事者が自己の自由を制限する理由にはなっても,第三者が他人の自由を制限する理由にはならない
(自己責任論以外ならば,自由を制限する理由になる.それを否定しているのではない.)

すべての他人がみた「正しいこと」しかできないのであれば,それを自由とは呼ばない.
個人的な正しさを判断するのは本人であり,個人的な正しさは第三者から見たら愚行であることもあろう.
第三者に通じる正しさを規定したものが法だ。その正しさの維持のため、法の正しさを個人の正しさにできるだけ近づけるため,民主主義をやってる。法とは理性の人類史そのもの。自由陣営では,その法においてのみ、個人の自由は第三者から制限されると解釈されている。
自由とはまず自らが主体となり律するもの。第三者は法にもとづいてのみ,他者の自由を根拠持ち制限できる。
(殴ることを許容できるなら,暴力で他者の自由を制限できる.暴力に正当な理由はあっても正当な根拠なぞ無いわけだが)
(法は複雑になりすぎ,法条のルールが定められた理由がわかりにくくなってきている.個人感覚と法は離れていると感じることが多いかもしらんが,そのルールの設定主旨を歴史を追ってきちんと調べてみれば,結構合意できる理論となっている.と思う.他の人がどう感じるかは知らんが.法が理解できないのは単なる勉強不足.とはいえ,普通の人が理解できないなら,法は法の役割を果たしていない,との意見もある.)

(AFFAIRE ASHBY DONALD ET AUTRES c. FRANCE(Requete no 36769/08) http://hudoc.echr.coe.int/sites/eng/pages/search.aspx?i=001-115845#{"itemid":["001-115845"]}
「i.  La liberte d'expression constitue l'un des fondements essentiels d'une societe democratique, l'une des conditions primordiales de son progres et de l'epanouissement de chacun. Sous reserve du paragraphe 2 de l'article 10, elle vaut non seulement pour les ≪ informations ≫ ou ≪ idees ≫ accueillies avec faveur ou considerees comme inoffensives ou indifferentes, mais aussi pour celles qui heurtent, choquent ou inquietent : ainsi le veulent le pluralisme, la tolerance et l'esprit d'ouverture sans lesquels il n'est pas de ≪ societe democratique ≫. Telle que la consacre l'article 10, elle est assortie d'exceptions qui appellent toutefois une interpretation etroite, et le besoin de la restreindre doit se trouver etabli de maniere convaincante.」
欧州人権条約の判例を持ち出すのも何だが,「最も現代的な人権に関する法」についての解釈であり,「国際統一されうる基準」なので.
ここでは,表現の自由は無害な情報等のためだけにあるのではないこと,多様性等が求められていることそしてそれ無くして民主的な社会はないこと,表現の自由に対する例外は厳格に解釈すること,表現の自由を制限するときにはその必要性を説得力のあるように立証する必要が有ることが判示されている.)

先の意見は、第三者への影響力を持つ法,刑罰と、個人的なものである責任を、履き違えている。


今回の件.
生還すれば,救助費用の負担という形で,必要な責任は果たし得た(量として可能かどうかは別として。保険やらなんやらあるから一概に言えない)。
助けた上で,叱り金銭負担させる.これは法から見て正当.
しかし
・自民・高村氏「後藤さんは蛮勇」 渡航自粛求める
http://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000043805.html
・・・
ならば,どのような条件であれば自由を制限するか,先に法で限定列挙しておくべきだろう.大陸法採用しているのだから。
自由とは原則的に認められてはじめて意味があるものである。それを制限するときは、あらかじめ限定列挙する必要がある。
憲法を持つ国の法は、そのほとんどが、様々な自由や価値観があることを認めた上で、それを制限するその国における最低限の共通ルールを決めたものとなっている。そしてその法を作るのが、大陸法圏では、立法だ。
するべきことをやらずに責任論を拡大解釈し、個人の自由を法の根拠なく制限するとは,大陸法の立法に携わるものの意見とはとても思えん.(あれなんかデジャブ感が)




「完全なセキュリティが欲しいなら刑務所に行くといい。食事、服、医療が与えられる。ないものと言えば自由だけだ」―アイゼンハワー
「Perhaps it is better to be irresponsible and right than responsible and wrong.」(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)


文句をつけるのはよい。だが法がなければ命令、支配権はない。
影響力は拡大できても、それは支配権を得たというわけではない。
権利とはなにかを理解しないと、影響力と支配力を履き違える。

もう一つ.
何が勇気であるか決めるのは本人であり他人ではない.
蛮勇だか真勇だか.公人がそれを言うと戦争が始まるからやめろ.
公人が妄想押し付けるな。


(追記
・「経団連に働きかけ、マスコミ懲らしめを」 自民勉強会:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASH6T5W6FH6TUTFK00X.html

・自民・大西氏が再び報道批判 「誤った報道に広告自粛」:政治:中日新聞(CHUNICHI Web) http://www.chunichi.co.jp/s/article/2015063001002011.html

阿呆が.以外に言えることはない.あほうが.












仮定
日本の現在の文化では,アイデンティティは個人の中ではなく,個人と個人の間にあるように感じる.
アイデンティティが個人の中にないから,個人が自分自身を(自分自身の命を,とまでは規定されていない)所有するという概念が薄く,明確な主体を前提とする自由と責任の概念はおぼろげ.

ローマ由来の自由と責任論が絶対とは言わない。
わたしゃ好まんが、日本の文化には自由と責任の多くを生け贄に捧げる共産のほうが個人感覚に近いだろう。
いずれにせよ、自由と責任論を曲げて使う今回の自己責任論の適用は間違っている。
同じ答えを得るのにも手法が間違えばそれは間違い。


まあ、今回の件。
皆は「自業自得」といいたかっただけだと思うけどね
(一応記載するが,自業自得とはもともと良い意味でも悪い意味でもない.ただ因果関係を示しているだけ)


ぶっちゃけ、
自己責任論でまともな議論なんてできないんだから、自己責任を論拠として提示すること自体が間違い。
自己責任のみ使うなんざアホの論理よ。


「まず」自分にかかる責任を、すべて他人に渡す。自分を自ら奴隷状態に落とす。これを自己責任がないという。説明責任だと猿のように騒ぎ相手を非難する人の多くが,これをわかっていない。相手に説明責任があることは、その結果全てにつき自分に責任がなくなるという意味ではない。相手に責任があることと,相手に責任転嫁できることは,その範囲は同じではない.損害計算時利益衡平により説明を受けていないものの負担割合が下がるのでそう見えるか知らんが。
自分にかけられた責任を自分の必要な範囲で果たすことを自己責任を果たすという。無限責任ではない。

自己責任とは、責任の所在の優先順位をのべたものであり、責任がすべて自己に存在することも意味しないし、他のものに責任がないことも意味しない。




さてdue processはここまでとして、
自由を制限するべきかどうか(自己責任論によらずに)。
自由原理のキリギリス、自由を捧げるアリ,どちらが生き残るか、バランスはどこが最適か、は、はてさて状況が決めるが・・・
少なくとも、わたしゃ、原則的な自由を限定的に制限するほうが、限定的に自由を認めるより好ましく、変化に対応しやすく、チェックもしやすいと思う。キリギリスに一部制限を、状況に合わせ迅速に、つけるとよいだろう。
今回の件は、自由を前提として、特別に法制化して渡航制限し人命保護を行うのが,適当だろうと思う.安易な制限は好ましくはないが,時限立法としてなら適当だろう.




・「自己責任」論を否定すると国家による渡航禁止など、自由の制限が始まる
http://diamond.jp/articles/-/66902
法を自分達で作るという、近代国家の大前提の感覚がないと,こうなる。
アナーキストの自由こそが自由,のようなこと言われちゃ,市民革命やフランス革命や独立宣言が泣くなぁ.
自己責任論に寄らずとも,自由の制限に反対する手法がある(こちらが正当な方法だ).
それを無視している.
正当な他のルートを検討もしていないで,自己責任論がないと自由の制限となる,という.自分の主張がまず決定していて,それに後付で適当な論理を引用し組み合わせている用に感じる.(結論が正しいかどうかは問題ではない。思考法が間違いなら、ちょっとした事実変化で結論自体も間違えるようになる。)
また,自己責任のなさと渡航制限を関連付けているが,自己責任感覚のある国でも渡航制限はされている.日本を含めたそれらの国では,人命保護のために,特別に自由の制限をしているし,それは許容される.
また,自己責任さえはたせば何してもよい,というような理屈は,責任をとれる範囲の行動しか許されない,と同じく,責任を理由としてさかのぼり自由を積極的に規定しようという,根暗い間違った考え方.自己責任さえはたせば何してもよい,というような理屈は,自由ではなく,自分勝手という.
(勘違いすると困るが、自己責任さえはたせば何してもよい、ではなくて、原則的になにしてもよい、が正しい。自己責任は例外をすべて打ち消す免罪符ではない、といっている。)
自由には第三者視点の制限がかかる.どの国でも,だ.が,自分勝手には第三者視点の制限がかからない.
第三者との共通ルールである法全体を逃れ,自分勝手にしたいのであれば,独裁者にでもなりなさい.法自体を無視したいなら、人類史全てに喧嘩を売るぐらいの覚悟を見せろ。
でなければ,個別の法を正すべきだ.

自由を行使した後,その結果については,まず自分が責任を負う.
まず自己が責任を負わないのであれば,ために責任を負わされた第三者により(法が規定され),自由は過度に制限されうる.
これはその通り.
だが他が違う.
「今回の場合」,自己が責任を追わなかったから,自由が制限されたわけではない.
自己責任の意味を,「責任をとれる範囲の行動しか許されない」という意味に,はき違えている.
その意味の自己責任こそ,自由の不当な制限だ.



「間違える自由がないのであれば,自由は持つに値しない」ガンジー
間違える可能性があるということは,あらかじめ予想した範囲の責任がとれなくなる可能性があるということ.
そうでなければ,自由は持つに値しないと言っている.

外部が強制する事前的な責任により事前的に強く制限される自由は,持つに値しない,と私は(も?)思う.


仏教用語で言えば,外部強制は律で,自己制限は戒で.
ってこった.
ちょっと言い換えると,外部強制は法律で,自己制限は責任で,ってこった.


・「自己責任」の社会と行政法
http://www.law.tohoku.ac.jp/~fujita/gakuinkoen.html

・「自由は冷たくて寒いものだし,束縛は温かいが腐臭がする」

・「憲法と国際法(特に、人権の国際的保障)」 に関する基礎的資料 2004.4 http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi050.pdf/$File/shukenshi050.pdf
「『第一世代の人権』とは、「国家は個人の自由の干渉を一切してはならないとい
う消極的な権利」であり、『第二世代の人権』とは、「これとは対照的にそれらの
実施のために国家の積極的な行動を求める」権利を指す。一方、『第三世代の人権』
とは、「発展の権利、健康でバランスの取れた環境への権利、平和への権利、そし
て人類の共同遺産を所有する権利」をあらわす。

・・「公共の福祉(特に、表現の自由や学問 の自由との調整)」に関する基礎的資料  http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi046.pdf/$File/shukenshi046.pdf
法律の留保.一元的内在制約説「①公共の福祉とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理である。②この意味での公共の福祉は、憲法規定にかかわらずすべての人権に論理必然的に内在している。③この原理は、自由権を各人に公平に保障するための制約を根拠づける場合には、必要最小限度の規制のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保障するために自由権の規制を根拠づける場合には、必要な限度の規制を認めるもの(社会国家的公共の福祉)としてはたらく。」

(参考:http://kz31.blogspot.jp/2013/02/blog-post_22.html




宮﨑駿の「風立ちぬ」を観た.

次の言葉を思い出した.
「 Almost anything you do will be insignificant,
but you must do it.
And the reason I must do it is captured by yet another adage, cited by various religious leaders:
We do these things not to change the world, but so that the world will not change us.」
「あなたがすることのほとんどは無意味であるがそれでもしなくてはならない.先人は言った.
そうしたことをするのは,世界を変えるためではなく,世界によって自分が変えられないようにするためである.
ガンジー(読人しらず)

ところで病人である妻の隣でタバコを吸うシーン.
あれはお互いの意思を尊重した行動に見える.あれ,吸う以外の選択肢がありえただろうか?吸う行為が愛の表れであろう.
病人の隣でタバコを吸うなんてありえない,という意見があったが,あの状況で相手の意志を無視しタバコを吸わない又はその場を離れる選択をすれば相手を,そして自分を,傷つけただろう.
これは,自由と主体の問題ともいえる.自由は主体が自ら律するもの,今回はお互いがお互いの自由を愛を持って律した.そういうこと.愛があることで主体は明確となっている.
愛がなければ,主体は不明確となり,自由を律する理由は愛でなく一般的モラルとなり,病人の隣でタバコを吸うなんてありえない,という意見が重視されたかもかんね.

・・・あの場面を観て一般的モラル重視の話がまず出るってのは,愛というものを知らんことが理由なのかね?感情移入できなかったのかね?自分の主体がないのかね?

医師のインフォームドコンセントは,これと似た問題である.
結果としての解決と,個人の意志,どうバランスをとるか.
この場合は第三者が介在しないので,個人の意志が強く尊重されることは明らかではあるが.

(参考: http://kz31.blogspot.jp/2013_08_01_archive.html